ぼくが研究で目指すこと

一般向け

酸素が足りないという状況で人間がどう反応するかを調べている。

酸素は人間にとって最も重要な気体です。酸素なしに人間は生存できません。その酸素の不足、低酸素に生体はどう反応するかを研究することで医学・医療の発展に寄与することを研究目的の一つとしています。

医者向け

酸素代謝が生体の機能維持にいかなる役割を果たしているかを細胞生物学・分子生物学的な観点から調べる。

酸素はヒトの生存に必須の分子である。 酸素は細胞内のミトコンドリでの効率のよいエネルギー産生に関わる分子でありクエン酸回路を経て電子伝達系でやりとりされる電子の最終受容体として働くことで生体で利用可能なエネルギーATPの産生に関わる。解糖系で産生されるATPだけでは生命の維持に必要なエネルギーをまかなう事は不可能であり神経細胞のように解糖系の発達が未熟な細胞も存在する。 このように酸素はエネルギー産生における役割が強調されるが、生体内のシグナル伝達に重要な役割を果たしている分子でもある。酸素から生成される活性酸素種(reactive oxygen spesies, ROS)は生体への毒性を発揮する場合もあるが細胞内シグナル伝達のセカンドメッセンジャーとして必須の役割を果たしている。 また酸素添加酵素によりアラキドン酸からプロスタグランジン、トロンボキサン、ロイコトリエンが産生される反応、チトクロム450が媒介する反応、またNADPHオキシダーゼがROSを産生する反応に酸素は基質として利用される。

このように酸素は生体においては、エネルギー産生、シグナル伝達の両面での役割を担っている酸素の不足が生体へ及ぼす影響を検証する学問をハイポキシア生物学と名付けた。 周術期管理の観点からハイポキシア生物学を追究することが私たちの研究の目的である。

”五臓”への酸素の供給の保証は麻酔科医の周術期管理のボトムラインである。 少なくともヒトは酸素を産生する仕組みを持たないので酸素は常に肺を通じて生体内に取り込まれることになる。この供給が途絶えると成人で体内に保持されている約1400mlの酸素は、麻酔中の酸素消費量を250ml/minと見積もれば約5分で消費し尽くされる計算となる。 このような危ういバランスの上にわれわれ麻酔科医の周術期管理はのっている 。

以上の観点から生体内の酸素ホメオスターシス制御機序を理解して制御する端緒をつかみたい。

生物学者向け

生命が進化の過程で構築してきた酸素との共存戦略を調べている。

酸素は、ネズミを長命に保つことのできる「脱フロギストン空気」として18世紀にJoseph Priestleyによって記述され当初から生命の維持に重要な役割を果たす物質と考えられていた。酸素ホメオスターシスの破綻は、今やほとんどすべての疾患の病態生理の通奏低音として存在する。ホメオスターシスの維持機構の解明はそれ故基礎生物学的な課題であるとともに医学的にも大きな課題である。私は転写因子hypoxia-inducible factor 1(HIF-1)をモデル分子に選び生体の酸素環境維持機構の解明をめざしている。

酸素はミトコンドリアでの酸化的リン酸化反応において最終電子伝達分子としてはたらき細胞のエネルギー代謝に深く関わるり、鉄代謝、血管新生、血管緊張の調節の要素としての役割を果たしている。これらの生命機能維持の下部構造の成立に深く関わっている酸素は、故に、様々な生命現象において時には主演し、時には脇役として振る舞っている。

 -生物進化と酸素・ミトコンドリア

46億年の地球史的、生物進化論的に考えれば、光合成能をもった藍藻類の登場まで分子状酸素はこの地球の大気、海水中での濃度はきわめて低い状態であったー元素としての酸素のクラーク数は49.5であり地球上でもっとも多く存在するのであるがー。この時代の原核生物にとって反応性の高い酸素は”毒”であった。地球上の大気中の酸素分圧は、遅くとも古生代カンブリア紀には20%を若干下回る程度には達していたという。その後酸素分圧は最高35%にまで上昇しまた15%程度ー飛行機内部の圧力程度ーにまで低下するという変化をへて現在の21%というレベルに至っている。酸素レベルの変化は時々の生物にとって生存に対する圧力となって生物の適応放散や大規模な絶滅の原因となってきたという仮説が存在する。酸素が世界に満ちてくると時を同じくしてミトコンドリアの祖先となる原核生物との細胞内共生により真核生物が誕生した。細胞内の基本的なエネルギー生成メカニズムが、生体の複雑さの進化のためにこの共生を必要としたのである。 生体は酸素を体内で生合成する酵素活性を持たないし、体内に安定して酸素を貯蔵する仕組みを持たないので酸化的リン酸化の主役としての酸素の不足は何よりもまず細胞のエネルギー飢餓を意味する。高圧発電所としてのミトコンドリアは電子受容体である酸素の不足により細胞内で活性酸素を発生させる。このようにミトコンドリアとの共生により酸素代謝バランスの乱れは細胞内レドックス環境の変化へとつながるようになった。 生体にとって重要な事は酸素代謝において適当なホメオスターシスが保たれているという事であり、このためには酸素分圧の変化を何らかの形で生体、臓器、また細胞が解釈して、それに応答する必要がある。酸素濃度の上昇・低下を、シグナルとして利用するシステムが発達してきたのである。

 -低酸素・低酸素応答とは

いったい低酸素、また低酸素応答とはどのようなものなのだろうか。 ヒトの酸素のフローを見てみよう。一気圧の大気中でのヒトの肺胞の分圧は110 mmHg程度であり動脈血中では約100 mmHg程度となっている。さらに、毛細血管を離れ、間質中では40-20 mmHgとなり細胞内の酸素分圧は最終的には20-10 mmHg(%で表示すれば一気圧下では、2.7-1.3%ということになる)となっている。何らかの障害がこの過程で起これば、全身または特定の組織・臓器へ十分な酸素供給がなされない状態となり酸素代謝が抑制されている状態が出現する。すなわちこれが低酸素状態である。低酸素に陥った際の細胞の応答は様々である。エネルギー産生を酸化的リン酸化に大きく依存している細胞例えばニューロンなどは酸素供給が絶たれると容易に機能不全を経て不可逆的な細胞死に陥る。一方、アストロサイトはグルコースの供給さえ確実なら解糖によりATPの産生が可能である。臓器レベルで見ても低酸素に対して脆弱な脳・心臓に比較して腎臓・肝臓は20分程度、血管平滑筋に至っては24-72時間程度の低酸素、虚血の猶予があり、このようにすべての細胞にとって酸素濃度の高低は同じ重要度を持つわけではない。生体には、軟骨組織、角膜のようにそもそも生理的に酸素分圧が低く抑えられている領域も存在し、幹細胞などのゆりかごである特別な生体内環境も酸素分圧が低いのだという仮説も存在する。

-酸素センサー

低酸素応答の惹起には、酸素分圧の直接または間接の感知機構が必要である。しかし常温常圧条件下で気体である酸素の濃度または分圧のセンサーの研究には困難が伴い20世紀の終わりを迎えても生体の酸素センシング機構の解明は完全ではなかった。 一例を挙げれば、ヘモグロビンは一種の酸素センサーである。α, βの2種類のポリペプチド鎖各々2本で構成される四量体であり、1つのヘムに酸素が結合するとタンパク質の立体構造が変化し、他のヘムにも酸素が結合しやすくなるという性質を持っている。酸素と直接結合するタンパク質が酸素センサーと機能していて、酸素濃度の変化が立体構造の変化に変換され蛋白質の活性(ヘモグロビンの場合は、酸素分子との結合能)が変化する。しかし、例えば、腎臓でヘモグロビンが酸素センサーとして働いてエリスロポエチンを誘導しているという事実はない。それでは腎臓ー正確には腎臓のエリスロポエチン産生細胞ーは酸素分圧の低下をどういった機序で解釈してエリスロポエチンを産生し始めるのだろうか。このような平明な問いへのアプローチから低酸素生物学の現代がはじまった。 米国ボルチモア市のJohns Hopkins 大学の小児科医Gregg L. Semenza博士は、1980年代の後半にエリスロポエチンの低酸素誘導性の発現誘導に関わる細胞内の因子の単離を決意し1995年にcDNAの単離に成功した。hypoxia-inducuble factor 1(HIF-1, 低酸素誘導性因子1)と名付けられたこの転写因子は、helix-loop-helix(HLH)とPer-ARNT-SIM(PAS)ドメインを持つアルファサブユニット(HIF-1α)とベータサブユニット(HIF-1β)が疎水結合で結合した二量体蛋白質であり各種解糖系酵素、グルコース輸送蛋白、血管内皮増殖因子、造血因子エリスロポイエチンなど、多くの遺伝子の発現を転写レベルで制御している。現在ではHIF-2, HIF-3などの関連遺伝子産物と共にファミリーを形成している事がわかっている。或る報告によれば、1%の低酸素に暴露された血管平滑筋細胞において、発現誘導される845個の遺伝子のうち245個がまた発現量が抑制される1072個のうち325個がHIF-1による発現調節を受けているという。このようにHIF-1は低酸素誘導性遺伝子発現のメインストリームに位置する転写因子であり、酸素分圧依存的な活性調節の大まかな分子機序は解明されている。またHIF-1は、”常酸素分圧”下においてもさまざまな条件下で活性化される事が判明している。p53, PTEN, VHLなどのガン抑制遺伝子の変異、神経伝達物質アセチルコリンやオレキシンによりHIF-1が活性化されるという報告がある。

このように”低酸素誘導性”を超えた役割を果たしているHIFとはHigly Involved Factorの略語でもあり、この転写因子の単離は低酸素研究での明確な分岐点となったと筆者は考えている。一方、研究の進展により”HIF活性化=低酸素”で代表される古典的なドグマでは説明し得ない様々な現象が生体には存在するのだという事実も明らかになってきた。この意味では、HIFは低酸素でなく酸素代謝の変調により活性化する因子ととらえなすのが良いのかもしれない。

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