存在の祭りの中で-宮沢賢治

On 2012/1/8 日曜日, in book, books, Thus Spoke Dr. Hypoxia, by bodyhacker

週末に「宮沢賢治の音楽会」という番組の録画を見ました。昨年の秋に放送されたもののようです。
NHKの企画力に舌を巻きます。
手嶌葵さんが高原(参照)で歌った「牧歌」と一青窈さんが歌った「花巻農学校精神歌」に特に感銘を受けました。

宮沢賢治は大学生の時に「宮沢賢治―存在の祭りの中へ(20世紀思想家文庫 12)」を読んで以来づっと読み続けてきました。岩手の彼にゆかりの場所も訪ねたことがあります。

宮沢賢治―存在の祭りの中へ」には非常な影響を受けました。人生でもっとも影響を受けた本ベスト10に確実に入ります。今でも時々読み返します。昨日も読み返しました。
宮沢賢治ほど「わたし」・「自分」とはどういった存在なのかを突き詰めて考えて実践していった人はいないと思います。
宮沢賢治は生涯に渡って自らの作品の改訂を行っていました。その改訂の様子は先人の努力で「校本全集」という形で出版されています。つまり彼の思考の履歴が本にまとめられているのです。「存在の祭りの中へ」へもその校本を読み解いて賢治の思想をたどるという手法を採用しています。
この本は高校生でも読めるように著者が意図して書いた本だそうです。その意味では賢治の小説,詩,童話を読破していないと理解できないような難しい本ではありません。実際にほとんど「文盲」に近い家内も読み始めました。

例えばこんな文章があります。

宮沢賢治の作品を読むという行為のなかでわたしたちが経験するのは,そこに展開する物語や「思想」に目を奪われておもしろいとかつまらないとか,深いとか通俗的だとかんがえるそのわたしちを,その反省の手前のところではじめからとらえてしまう,感覚の洗滌作用のごときものである。
わたしたちが,まるではじめからわたしたちじじんのものであったかのように,(そしてほんとうにそのとおりなのだが)いつのまにか作者と共有してしまうのは,存在という奇蹟,存在という新鮮な奇蹟にたいして,これを新鮮な奇蹟として感覚する力のようなものである。

このような表現がごく自然に感じられる著作になっています。

この本を読むと宮沢賢治の著作をすべて読んでみたくなります。
現在では大部分は青空文庫に収録されています。

以前,四方田犬彦氏の「先生とわたし」を紹介したことがあります (参照1, 参照2)。この本でも紹介されている「Lessons of the Masters (The Charles Eliot Norton Lectures)」の邦訳が出版されていることに今朝日本経済新聞を読んでいて気づきました (参照)。ぼくは英語で読んだので多分理解が浅いままです。邦訳も読んでみようと思います。

どのような「師」であっても自分がこの人は「師」だと迷い無く呼べる人を持つことは幸せな事だと思います。
成人してからはこの人は自分の「師」であると無条件に呼べる人が少なくともぼくには四人います。少なくともこの四人との出会いが無ければ今の自分が今の自分ではなかった-良い悪いは別として-と思っています。お世話になったというような「恩師」だけでなく,いわゆる「反面教師」も「師」です。対立して破門を言い渡された事もありますしぼくが興奮して電話機を投げつけた人もいます。しかし全員「師」。

宮沢賢治―存在の祭りの中へ (岩波現代文庫―文芸)
師弟のまじわり

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