昨日ひょうんなことから息子と仁徳天皇陵(大仙陵古墳)まで出かけました。 三国ヶ丘の駅をでると真ん前にドンです。

でかいですね。一周したらどっと疲れました。


ちょっとやりすぎ

もしかしたらノーベル賞という某「大発見」の顛末にもほとんど興味が無くなってきました。 しかしやっぱり基礎医学ではまず論文というようなプレッシャーはあるのでしょうか。 ぼくの廻りではそんなもの皆無です。「エライ」人はそんなはしたないことはしないというような感じです。

理研がどうのこうのと言うことにもほとんど興味はなく強いて言えば年度末になってバカ高い調度類を買うほどたくさんの予算を特定の研究室に配分するくらいならぼくにも使わせてもらいたいものだという位の感想はあります。

 

前々回のエントリーで

学位認定の多様性 学位の認定って大学、研究科ですごく違いますよね。

例えば京都大学では理学研究科と医学研究科でも大きな違いがありました。 理学研究科は査読論文の公刊を前提としてその論文の内容をさらに詳細に記述した博士論文を執筆してそれについての公聴会を経て学位が認定される仕組みだったと思います。論文をお手伝いした研究者の方に一部コピーを頂きそれが大作だったのでびっくりしました。それでも日本語で記述されていました。

一方医学研究科では査読論文の公刊を前提としてその内容をA4一枚程度に要約したものを提出するだけで公聴会を迎えてそれに合格すれば学位が認定されるしくみでした。こちらは現在も変わっていません。A4一枚程度です。これではコピペなどが問題になることはありません。

今回話題になっている「博士論文」をみてびっくりしました。あれだけの分量の英文を書くのは相当の英語力が必要で学会の抄録もまともに書けない学生にとっては天文学的に難しいのではないかと思いました。ハードルは高いですよね。日本語でもいいのでしょうか早稲田大学は。

と書きました。

その後、あるブログエントリーを読んでまた驚きました。 

思い出してみると榎木さんはご自身の著書でもこの経緯についてはすでに書かれているのですね。

東大の理学研究科恐るべしです。

 

ところで同じ博士号でも通称医学博士は取得が「簡単な」ことで「有名」です。

 取らないと気になるけど、取っても食えない―。「足の裏の米粒」と揶揄されて来た博士号。

  ともいわれます。(参照

しかし、ぼくは大学院時代研究に明け暮れていましたが4年で博士号を取る事ができませんでした。はじめの頃に麻酔科を破門されたということもありどうしようかと悶々とした大学院生活を送っていました。 (参照1, 参照2, 参照3)

どうして4年で終わらなかったのだろうと考えるとやはり「バカ」だったのだろうという結論に到達するのです。

さっきのページですが博士号を取得した理由要するに大学院に入学した理由がいくつか挙げられています。(参照

 

  ぼくの場合をお話ししましょう。

 話はぼくが高校生の時に遡ります (すごいじゃないですか新潟県で35番目に入るのが難しいらしい)。  

 当時朝日新聞社から「科学朝日」という月刊誌が出ていました。高校の図書館においてありそれを毎月読んでいましたのですが、あるときに京都大学の沼正作先生と中西重忠先生が黒板の前でに二人で経っているというツーショット写真と共に業績が紹介されていました。  ACTHの前駆体のお仕事だったと記憶しています。つまりこれこれまたはそれをまとめた記事だったのかもしれません。

 「これは「カッケー」ぼくも京都大学でこういうことをしてみたい」という気持ちが湧いてきたのでした。

 しかし入学しても大学生の時代に有名研究室に出入りするというようなことはありませんでした。廻りには賢そうなヒトばっかりで、とても自分がそんなところに出入りしたところで役には立たないだろうと思っていたからです。なにせタダの田舎者でしたから。

 それでも一度は基礎研究をしてみたいという希望はあったし京都大学では同級生のほとんどが大学院に入るという時代だったので4年間の臨床研修の後に大学院に入学しました。二年で大学院に入った同級生もいましたがぼくは4年間臨床麻酔をしました。当時の水準では4年もすれば取りあえず一人前という雰囲気もあったので取りあえず4年ということで。

 で結局、上にも書きましたが全然データが出ず4年間で学位は取れませんでした。 破門されたはずの麻酔科に戻ってきてそこで実験などを続けてやっと学位を取得できました。 学位のための公聴会は長野オリンピックのスピードスケート男子500mの決勝で清水宏保が滑る時間に開かれて教授には「おまえのおかげでテレビ観戦ができなかった」と小言を頂きました。

 ぼくの場合、期待はされてはいませんでしたが、君は研究に向いていないからもう止めろといってくれる人もいませんでした。ずいぶん悩みながら実験を続けたことは今でもよく覚えています。しかし大学院の4年間はとても充実した4年間でした。実験以外にも班会議への出席などもさせてもらい研究者としての第一歩を大学院の時代に踏み出したと思います。またこの時期を含む7年間を北白川の交差点のアパートで暮らしたのですがぼくの人生でももっとも充実していた期間だったと断言できます。

 その後研究室の周辺をぶらぶらしていいたらもう20年くらい経ってしまいました。もし研究を続けていなかったらもっと別の人生があったとは今でもよく思います。

 前回のエントリーで

つまり「貧乏人はサイエンスをするな」

   と書きましたが「バカはサイエンスをするな」とも当時の自分にはいいたいです。

とはいえ一旦大学院に入ったからには学位は4年で今のうちにさっさと取りましょう。今回の余波で医学博士といえども難関になるかもしれないよ。  

 

 昨日の日本経済新聞に

 「科学の顔をした迷信 第30回  千里眼と神秘世界の誘惑 (明治) という「熱風の日本史」というシリーズの一記事が載っていました。

「千里眼」の能力を持つ御船千鶴子という23歳の女性の一件が紹介されていました。 この人透視能力をもつという触れ込みで一斉を風靡したそうなのですが

千鶴子の透視方法には「欠陥」があった。透視を行う際、手元を見せずに背を向けること、自分なりのやり方では成功するが、実験者が指示した方法ではうまくいかないこと、などだ。このため詐術ではないかという疑いが持たれた。

とのこと。

 最後は服毒自殺してしまったのだそうです。

 念写の能力を持つ長尾郁子という女の人も出現したのですが、この二人を見いだした東京帝国大学助教授の福来友吉

「迷信を助長する学者」と批判を浴び、10月に休職を命じられた。

のだそうです。妙な既視感がありますね。

 福来の郷里岐阜の高山市には「福来記念・山本資料館」というのがあって理事長の山本貴美子さんは

「いつどこでだれがやっても同じ結果が出るのが科学。同じ結果になるとは限らないのが心の科学です。だから、信じてもらえないのは仕方ない。でも透視と念写は事実です」といい切る。

とのこと。いやはや「科学的」って難しいです。

しかしどの時代も構図はそっくりですね。 日経は絶対「意識」しているよね。でもちょっとやり過ぎです。

 


「犬の伊勢参り」

犬の伊勢参り」という本を読みました。

  読んでの如く江戸時代は犬が単独で伊勢参りをしていたのです。牛や豚も伊勢参りをしていたという報告もあるのだそうです。  

  記録に残っている犬の伊勢参りの嚆矢は、明和8年(1771年)4月16日のことでこの場合は飼い主まで判明しているのです。

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