東海大学の熊本キャンパスでの講演会が終わりました
東海大学の熊本キャンパスで講演をさせいただきました。
大学時代からの友人が教授をしていています。
東海大学 九州キャンパス主催 公開学術講演会 「低酸素応答の過去・現在・未来」
東海大学・熊本校舎・本館5 階・視聴覚教室
日時:12/06(金曜日) 午後5時20分~午後7時
講演会には大勢の皆さんに参加していただきました。 東海大学の伊勢原キャンパス(医学部がある)にも同時中継されて10人ほどの参加者がいらっしゃいました(こっちから向こうが見えていました)。
東海大学は九州には二つのキャンパスがあります。 阿蘇と熊本です。この二つをまとめて九州キャンパスという括りにする場合もあるようです。
先の地震で阿蘇キャンパスが機能が止まり現在熊本キャンパスに間借り中と言うことで現時点ですごく多様な研究が行われてるようです。
講演後は友人が卒業研究を担当している4年生の学生さん10人くらいと食事に出かけました。
みなさんすでに進路が決まっているようです。やっぱり好景気なのですね。
ノーベル賞講演会
ノーベル賞の講演会が開かれてネット上に公開されています。 生理学・医学賞の講演も行われたようです。 Semenza氏の所だけ視聴しました。
はじめのほう無茶苦茶ド緊張していましたね。
また最後の最後でウルウルしてました。
Watch the emotional moment Medicine Laureate Gregg Semenza thanked his family for all the support they’d given him on his journey to the Nobel Prize. pic.twitter.com/M7C43CaI9F
— The Nobel Prize (@NobelPrize)
医学部の講義のような解りやすい講義でした。
ぼくが関わったFIH-1, Chuvash polycythemia,HIF-1aの持続活性化型アデノウイスルベクターの仕事にも言及してもらいぼくは大満足でした。
Gregg Semenza博士:ノーベル賞!!
Johns Hopkins UnivのGregg Semenza博士を含む3人の研究者に今年のノーベル生理医学賞が授与されることが決まりました。
感慨深いです。 同慶の至りです。
Kaelin氏の研究室出身者にも数多くの日本人研究者(近藤さん、Andy、英二郎)がいるのでおめでとう。
「2016 Albert Lasker Basic Medical Research AwardをGregg L. Semenza博士が受賞しました」に言いたい事は書きました。
この前来日の際の記事にも「Semenza博士の講演会を関西医科大学で開催しました」も合わせて読んでください。
こんなに身近な人が、しかもぼくも関わった研究でノーベル賞に届いたという事でぼくの基礎研究者としての人生は報われた感じがあります。
ここまでで一番しんどかったのは京大での8年間でした。
不整脈は出るしホントに死ぬかと思いました。
そう考えるとSemenza氏の研究室での2年半は天国でした。16時には家に帰って土曜日・日曜日も行かなかったけどいろんな研究成果が出ました。
今回の受賞理由もほとんどがこの時期に世界中で行われていた研究結果で学問分野の黎明期にどっぷりつかることができてこれも幸せでした。 そこから20年皆さんがこの分野を盛り上げてくれました。
とにかくよかった。 何かぼくも無敵感出てきました。
朝から家で某作業をしているのですが暑いです。 完全に夏の日差しで気温も30℃をあっさり越えていると思います。 ファンが廻ることがあまりなくなったmacbookもブーンと音を出しているので暑さに拍車がかかっています。 家内が外出しているので洗濯をしたのですがあっという間に乾いてしまいました。
結局大阪市では32.7℃まで気温が上昇したのだそうです。
先日某集会で某先生にブログの更新がなく学会でも見かけなかったからどうにかなったのかと思ったと云われたのですが一応元気でやっております。
前回のエントリー出してから、日本語の総説一篇、論文のrevision二つ、英語の症例報告一つ、査読三つしました。忙しかったのです。
Cakesというネットマガジンで堀江貴文さんの 「ゼロ――なにもない自分に小さなイチを足していく」 という連載が行われています。
11月5日(火)に発売される堀江貴文さんの書き下ろし単行本『ゼロ――なにもない自分に小さなイチを足していく』の内容を、cakesでいちはやくお届けしていきます。
ということで11月には出版される彼の自伝的回想録を先行して掲載しているのです。 静謐な文体で綴られる文章がネットで評判となっています。
うちの両親は、二人とも平凡な高校を卒業した、ごくごく一般的な人たちだ。 たとえば、うちの父は「本」と名のつくものをほとんど読まない。家に書斎がないのはもちろん、まともな本棚もなければ、蔵書さえない。テレビがあれば満足、巨人が勝てば大満足、という人である。 そんな堀江家にあってそんな堀江家にあって、唯一読みごたえのある本といえば、百科事典だった。
とのこと。そんな家庭に育った堀江少年がどういう風に育って今の堀江氏になっていったかが語られるのだと思っています。
連載の数回を読んで「自分の事が書いてある」という気持ちを抱きました。
ぼくの父母は高卒どころか中卒で家にあった本は百科事典一式どころかたったの二冊。いまでも明確に記憶しているのですがその二冊は三島由紀夫の「潮騒」と田中角栄の「日本列島改造論」でした。
ぼくは学習塾に一度も通った事はなかったし中学・高校も家から最も近い公立校-本当は二番目に近かったのですが一番近い高校は女子校だったのです-に通ったということが彼と食い違う点です。小学校と中学校の教師は機関車で一時間ほどもかかる学校への進学を勧めたという事ですがどう考えても現実的ではありませんでしたので結局最寄り校に通うことになりました。
連載が進むに従って食い違う点がどんどん出て来るのですがとにかくはじめの二回くらいまではそういう想いがありました。
すごい興味を持って連載をフォローしています。
医療関係者がみるネットで 「プレゼン参考書、役に立たない」が7割強 という記事を読みました。
学会や研究会での医者のプレゼンテーションやポスター発表を聴くと改善の必要があると想われるものが7割以上はあるとおもうのですが理由がわかったような気がしました。
とにかく他人に一回は聴いてもらうとだいぶ違うと思います。
togetterで「妊婦と研究」というまとめを読んでみました。
神戸大学の岩田教授のtweet「忙しい臨床をやりながら研究活動は大変だ。産休や育休のとき、空いた時間に研究をしたらよい、という意見がある。大賛成だ。」がきっかけになった一連のTLをまとめたものです。
読んでいてよくわからんなと思っていたのですが途中で解った事があります。 要するに岩田教授のいう「研究」とぼくが考える「研究」が違うものだということです。
産休中とか育休中にでも「研究」はできると云うことですが確かに研究を広い意味に取ればいくらでも「研究」はできます。食べていても歩いていても研究はできるしもしかしたら寝ていても「研究」はできるかも知れません。たぶんぼくは24時間「研究」しています。それでなくとも臨床家は意識しなくとも日々「研究」を行っているともいえます。今日うまくいかなかったことがあればその原因を探り翌日の臨床に役立てる行為は立派な「研究」です。その結果が学会発表とか論文とかの「形」になる場合もあるし「研究者」の頭の中にだけ留まることはあるかもしれません。
昨日の日本経済新聞の朝刊に東京大学の石井志保子教授の記事が掲載されていました。
烈女 「数学への情熱支えに試練を克服 石井志保子さん」です。
このような研究と岩田先生が産休・育休中にでも行えると主張する「研究」はたぶん質の異なるものです。どちらが高級で低級であるとかの関係でなく質的に異なると思います。
生物学研究に限っても授乳をしながら実験を続ける事は事実上不可能の様な気がします。ただ研究室のミーティング出るなどの「研究活動」を継続することはこれは困難かも知れませんが一応可能だと思います。
と考えて自分的には納得しました。
ただ産休・育休中にできるのであれば臨床をしながらでも研究をすることは可能だと思いましたし実際にぼくはそうしてきました。臨床の片手間にやっているから碌な研究ができないのだと云われるとそれはそれで「そうですか」としか言い様はありませんけど。
結局本人の問題なのだと思います。
また「出産・育児ー>研究です」と言い切るのもそれこそドグマでしょう。そもそも比較できないこと同士です。
外部資金を獲得して遂行するようなプロジェクトはこれは目に見える「成果」を要求されます。頭の中だけで「研究」しましただけでは「次」がありません。他人の論文を読んでそれにcorrespodanceを付けたりちょっとしたメタアナリシスを行うだけでは「成果」と見なされない場合が多いと思います。研究費を必要としない「研究」だけを行っているのであれば成果など端から誰にも求められませんがこれで自分は「研究」を行っているのだと思うことができればこれはある意味happyかもしれません。
國分 功一郎 さんの 「来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題」をしばらく前に読みました。
「この雑木林をつぶして道路にします。 役所で決まったことなので、 住民は黙っていてください」
役所が決めたらそれで決定。 こんな社会がなぜ「民主主義」なのか?
たった1.4キロの道路計画をめぐる住民運動に 日本中から熱い関心が集まった! 2013年5月、東京都初の住民直接請求による住民投票が、小平市で行われた。 結果は投票率が50%に達しなかったため不成立。 半世紀も前に作られた道路計画を見直してほしいという住民の声が、行政に届かない。 こんな社会がなぜ「民主主義」と呼ばれるのか? そこには、近代政治哲学の単純にして重大な欠陥がひそんでいた――。 「この問題に応えられなければ、自分がやっている学問は嘘だ」と 住民運動に飛び込んだ哲学者が、 実践と深い思索をとおして描き出す、新しい社会の構想。
報道でも随分と取り上げられた「小平市都道328号線」問題を一方の当事者の視点から綴ったものです。
この「来るべき民主主義」と云うタイトルの意味は第五章で明らかになります。「民主主義というこの名に値する民主主義はいまだ存在していない。民主主義が来るべきものにとどまっている」というジャック・デリダの言葉から取られているのです。
「小平市都道328号線」問題は小平市と東京都と住民との関係で発生した問題なのですが、臨床医にはもっと身近ないわゆる「医局」という存在があります。
例えば日本は立憲君主制とか議会制民主主義(議会民主制)とかの政体だと考えられているそうですがその意味合いでは「医局」制度は絶対君主制だという事になると思います。医局員は誰を「君主」に戴くかを決定することが原理的にできません。教授会なり理事会なりが決めた「教授」が皆を「支配」する制度となっています。成文かされた憲法もありません。もちろんその君主が名君であれば絶対君主制であっても問題は少ないかも知れないのですが君主の決定が誰に対しても100%などという事はあり得ないのでどんな名君の治世でも不都合を感じる人はいると思います。統治に失敗しても交代は通常ありません。そもそも終身制の君主は「君臨すれども統治せず」という場合が多いのですが日本の医局制度はそうではありません。
そもそも医者をするのに「医局」に属さないといけないということはないので最近ではそういう選択を行う人もいます。うまく立ち回って「医局」に属していないのに「医局制度」の有利な点だけをもっていく人もいます。とにかく昨今の医者不足で混沌とした状態となっているのです。ぼくも損得だけで考えれば相当損したと思います。大学を移れば今までの「貢献」は全てチャラで何も見返りは無かったですから。
どうあれ「医局制度」には問題が大いにあると思います。だからといって根本からこの制度を否定するという発想では現実の問題をうまく扱えないと思います。民主的な集団に少しでも医局がなれるように具体的な行動をしていかないといけないのかも知れないとは思います。絶対君主制であっても民主的な運営はできるはずです。
ということを再確認。
またこの新書を読んで「レッドアローとスターハウス: もうひとつの戦後思想史」を思い出しました。小平市ってここら辺ですよね。
ノーベル賞週間がはじまります。
昨年は日曜日だったように記憶しています。
最近は医学生理学賞だけでなく化学賞も生命科学分野からでる場合がありますから予想は難しいです。
iPS細胞級の発明はなかなかありませんからさらに予想は難しいです。
ただオートファジーはないだろうととは思っていますがカドヘリンはありかも。(参照)