論文におけるコピペ

On 2014/3/6 木曜日, in hypoxia reseacrh, by bodyhacker

専修医-という医者の区分がぼくの職場にはあります-のS司先生と当直をしていて19時過ぎに一旦終終わって王将から食料を調達して腹一杯食べてさてシャワーでもと思っていたらこの時から… という訳で午前中は全く調子が出ませんでした。

論文が二つほぼアクセプトとなったということが解った事が救いですね。 一つは結構やりとりに時間が掛かりました。意地でぼくも頑張りました。reviewerの云っていることがおかしいと思ったらおかしいとEditorに言ってみるものだということがよく解りました。

懸案の原稿も送ったし来週からは未処理論分に掛かりたいと思います。【業務連絡】

 


ネットで朝日新聞のある記事を読みました。

日本学術振興会特別研究員・渡辺皓子さんに関する記事でいわゆるポスドク問題を扱ったものです。

娘に「自分が両親の研究の邪魔になっている」とは絶対に思ってほしくない。よく考えた末、研究者の道を離れることを決めました。4月から京大の学術研究支援室の職員として、学内の研究環境整備の仕事に携わります。

という解決策を採ることを決意されたとのことです。

渡辺さんは京大で授与している「たちばな賞」という「イケてる」女性研究者に与える受賞したこともあり水準以上の研究者であると思うのですがこのような人でもこういった選択を迫られるというのは制度がおかしいのだと思います。

同じ京大でもぼくのよく知っている部署では博士号があろうがなかろうが誰でもいいので助教で採用しているのに…

ホント理不尽ですよ。


某世紀の大発見問題もフォローをtwitterを情報源にすることに制限していたのですが一般の新聞でも報道されるようになってきました。

昨日も理研から「STAP細胞の作製に関する実験手技解説」が発表されてぼくにとってはSTAP細胞って何者ということがますますよく解らない感じになってきました。

STAP細胞があるのかどうかは現時点では「論文通り」と考えるしかないのですがこの問題が意外な方向に発展しました。

新聞報道によれば

 新しい万能細胞「STAP(スタップ)細胞」について、理化学研究所などが1月に英科学誌ネイチャーで発表した2本の論文のうちの1本で、実験方法を記した文章の一部が、2005年に発表された別の論文とほぼ同じであることが1日、わかった 問題の文章は、STAP細胞から作った幹細胞が正常に増殖するかを調べた実験に関する、17行分の英文。ドイツの研究者らが専門誌で発表した論文の、胚性幹細胞(ES細胞)で実験をした時の手順の記述と、ほぼ同一だった。温度などの数字や、実験で使ったとする顕微鏡、カメラの種類も同じで、他の論文からの引用を示す記載もなかった。

つまり小保方さんらの件の論文には17行に渡って他の論文とほぼそっくりの英文表現があったということです。

主にこれをめぐっての議論をtwitter上で追ってみました。

twitter上で @georgebest1969さんは

というような意見を述べています。

この場合の「コピペ」というのは文字通りのcopy & pasteだけでなくもう少し幅広いものを指しているのだと思います。

ぼくも50篇くらいの論文は自分で書いたと思いますが確かに「定型的な部分」はあります。

内容が重要で形式は二の次という主張だと思います。 「形式」の瑕疵で論文なり業績なりが「チャラ」になるかどうかは一般的には言えないと思います。 またSTAP細胞の実在性についての議論とこの議論は別だと思います。

論文はあくまでもある人たちの主張がある程度の確からしさで正しいとある雑誌の編集者が認めたという事に過ぎません。Natureの編集長は神のように振る舞っているかも知れませんが全知全能の神ではありません。

確かに中身は重要です。 それでは中身が「同じ」でもそれは問題ではないのでしょうか?  論文でなくともほぼ同じ内容の講演をいろんなところでしている人はいます。「またか」って奴です。これってself-plargarismなのでしょうか。 中には中身だけで無く同じパワポのfileを用いて興行を行っている人もいます。 もちろんこれを問題だと言う人はいないとは思います。

とまで言い切っているのですがそういう問題とも違うとは思います。

一方@Sukuitohananikaさんは

とtweetしています。

「研究倫理上アウト」というのは具体的にどのようなことを指すのでしょうか? 

倫理上アウトでも論文はそのまま残り、研究費も出続けるのであれば当該研究者は「アウト」ではないです。学問の世界からは追い出されてもマスコミで生き残る人文系の研究者もいると思います。自然科学系でも明確に捏造と所属機関に寄って認定された論文の著者も大学や公的な研究機関に在職している人もいます。

「基礎科学の研究倫理と人体を対象とする研究倫理の違い」という意味がよく理解できませんでしたが自分のおかれた場所でこのような事に対する考え方が変わってくると言うことはあると思いました。

池田さんって実験とかにも造詣が深いのでしょうか。すごいです。

@kazu_fujisawaさんは

とtweetしました。

この部分だけ取り出すと随分なことを言っているなど思うのですが

http://www.jsi-men-eki.org/scientist/newsletter/html/vol11no1/JSINewslettervol11no1_top.htm

まで読むとだいぶ印象は異なります。実はすごく的を射ているのではないでしょうか。

でも世の中には最初は嘘というかたぐいまれな生物学的なセンスにより編み出した「理論」を「実験結果」と共に世に問ってその結果それが見事に他人によって「再現され」それ以降学会の定説となったというような事例は存在すると思います。

また先駆的な理論が一人歩きを始めてその次の世代に花開くというような事例もあります。

例えば「免疫応答による抑制」という考え。つまり抑制性T細胞の考え方なんてその一例ではないかと思っています。

-この話はこの種の議論に触れる度に思い出します。大学院の時にお世話になった淀井淳司先生はこの話をするのが好きでまた登場人物を個人的にもご存じですごく臨場感あふれる雰囲気で話を何度か聴かせてももらった記憶があります-

日本免疫学会のこの特集はおもしろいです。

 

ぼく自身は例えばWestern blotとかRT-PCRなどのありふれたassayを定型的に行った場合や統計の部分は主に過去の自分の論文の記載を手直ししてそのまま書き込むことはあります。自分ではこれをself-plagiarismとは認識していません。珍しいassayであれば元になった論文の記述もある程度そのまま記載することもあります。どの場合でも参考文献を掲げることがほとんどで特に後者では必ずそうします。オリジナルな論文の著者に敬意を表すと言うよりassayの正当性を主張したい-つまりこんな素晴らしい論文に記載されていた方法なんですといいたい-という気持ちが強いと思います。

雑誌の投稿規定で引用論文の数が相当限られる場合があります。Natureなどではそういった事情もあるかもしれませんしかしNatureなどのばあい通常本編より長いsupplementが付きますからそこではいくらでも引用はできると思います。

 

@georgebest1969さんは

ともtweetしていてこうなると何いっているのか解りませんね。 何か別の分野の人の話をきいているみたいです。ところで@georgebest1969さんっていったい何する人なんですか?

との感想には共感できます。

以前にも書きましたがこの一件はこの観点からすごく興味をもって見守っています。

だって内容が正しと自分で自分を納得させられれば、いろんな手を繰り出してまず論文にしてしまってもし他人に問題を指摘されても自分で再度「再現」できたらそれでOKなんでしょう、結局は。

 

俎上にある研究論文はすでに「投了」状態だとぼくは考えています。

しかし、あれだけの研究者が共同研究者として加わっているのだから「STAP細胞は確かに作ることができるのだ」という主張についてはそれはそうなのだろうと考えています。

でも冒頭に書いたようにそれさえも「いったいSTAP細胞って何者?」と思い始めています。

 

先ほどの抑制性T細胞の話ですが故多田富雄先生も文章を寄せて居られました。

 1990年代になると突然suppressor age は幕を閉じた.現象論だけが賑殷をきわめ,当時やっと可能になった分子的解析が欠けていたことによる.特にI-Jや抗原特異性の謎があった.過激な議論に「Tsは存在しない」というのがあった.陰湿な異端審問的な論調に,私はある国際誌で”eppre si muovo!”(それでも地球は動く)というエディトリアルを書いたことがある.ガリレオガリレイの言葉である.私の恩師岡林篤教授は,「自分の眼で見た物だけを信じよ.ゆめゆめ疑うことなかれ」と口癖のように言われたのを実行したまでだ.

 またこんな特集を組んでいた日本免疫学会ってこの当時はすごくクールな学会だったと思います。

   STAP細胞が報告されているような「もの」であればこれは素晴らしいと思います。  


時間があったので職場で行われている学位の為の公聴会に聴衆として出席してきました。

実は二回目です。一回目はぼくのところに研究に来てくれていた先生の公聴会でした。

雰囲気は似たようなもので結構厳しいと質問がでます。

某国立大学の公聴会より厳しいかもね。


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当直です。シャワーを浴びてOS-1を1L一気飲みしたら冷えてきました。

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芥川賞が昨日発表になり何かと話題となっています。
受賞者の一人円城塔さんは東大の博士課程を出た後各種ポスドクを経て作家になったのだそうです。知りませんでした。
伊藤計劃さんといつも混同してどうして無くなった人が芥川賞をなどとアホなことを考えてしまいました。

円城さんが日本物理学会誌の「”ポスドク”問題」というシリーズに投稿した「ポスドクからポストポスドクへ」という文章をネットで拾ってよむことができるとネットで知り早速読んでみました。

建設的な意見とは思いませんがおもしろいです。作家は建設的な意見をだす必要はないと思います。(”専門は法螺吹き” とはこのエッセイの最後にご自身で書かれていることです)

円城さんはポスドクをやめたときにお母さんから「お前が研究者をやめてくれて心底ほっとした」と言われたのだそうです。
ぼくも家内から「一刻も早く研究をやめて医者として人間としてまっとうな道を歩む」ように何度も勧告されています。顔を見るたびに言われるのでそうするのが正しい道であるかのように思えるときもあります。
ぼくらのポストも常勤とはいえ一応の期限は付いています。5年でお終いのはずがいつの間にか延長になっていたりはしますが…
しかし,この世界の習わしでいつ何時「君もういらんわ」といわれて放り出されるかもしれません。その意味でぼくらも少なくとも研究者としては「ポスドク」と同じ身分と言えるかもしれません。大学の臨床講座で教授にならずに定年まで勤めあげるということには相当の胆力が要求されますし実際には無理です。手に職があるので大学を出ても食べていくことは可能であるという救いはあります。
そもそも研究しない人が大学にいる理由もないのですがそれでも妙に大学が好きな人はいるのです。これはいまでも理解不能です。
こういうことを書くとますます出世しないのですが時々こういうことも書きたくなります。

もう一人の受賞者の田中さんのインタビューも全文が掲載されています(参照)。文壇って学者の世界と一緒でちょっと魑魅魍魎の住む所っぽいですよね。ちょっと怖い。

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PLoS Oneに“Brain Training Game Improves Executive Functions and Processing Speed in the Elderly: A Randomized Controlled Trial”というタイトルの論文が出ています。任天堂のDSソフト「脳を鍛える大人のDSトレーニング」の効果を検証した論文です。
いろんな見方があると思います。
各群n=14の検討で何か言えたのかと批判的にとらえる人もいるかもしれません。確かにこの程度の数では某学会の学芸会レベルの発表とかわるところがないとも言えます。
信じろといういう方が無理筋かもしれません。
論文の解釈には”Critical appraisal“が必須です。ある論文の結果を新聞や abstractだけよんでまに受けて次の日から臨床で試してみるというようなやり方はまともな医者がすることではありません。


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年末から新年に書けてネットで随分とたくさんの議論が行われてきた某問題ですが,このブログエントリーで議論がよく整理されていると思いました (参照)。

  1. 大学教員(研究者)になる=応募者の中で絶対に1番になることであり、絶望的なぐらい困難で覚悟の要る挑戦
  2. 大学教員公募を勝ち抜くのは大変だし、ノウハウも要る
  3. 就活競争激化によって競争原理が働き、近い将来日本のアカデミアは優秀な研究者だけが残るはず
  4. (3.への反論)むしろ過当競争激化によって優秀な人材のアカデミア敬遠が進み、明るい未来は期待できない
  5. (1.の補足)大学教員公募には様々な表面には出て来ない選考基準がある上に、「大学教員になるためには大学教員であるという経験が必要」という実務経験重視主義があるため、一番最初に大学教員になる際のハードルが最も高い

一般的なポスドク問題とこのような状況はすこし原因も対処も異なるのでは無いかという気もしますが当事者にとっては厳しさは同じなのでしょう。
京大でもいわゆるテニュアトラックの教員募集には驚くほどの応募があるのだそうです。そう思うと皆さんすごく賢そうですね確かに。

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こういった議論を目にするといつも思うのは所変われば事情も大きく変わるのだなということです。
医学部の臨床系の講座では基本的にはこのような問題は生じません。
たとえば卒後4・5年目で博士号はおろか当該科の専門医資格も無くとも「助教」になることが簡単にできます。
そもそも博士号でさえ週に数日”研究”することで取得できる場合もあるようです。
「助教」は「助教」ですから研究費の申請も可能であり,ある程度の金額の研究補助を受けることができれば自分の身の丈にあった研究生活を続けることは十分可能です。学術振興会の研究費の若手区分であればpublicationなど無くとも採択される可能性は十分あり消耗品の費用を賄うことができれば総合大学であれば必要な測定機器は学内のどこかにあるはずなので頭を下げれば使わせてもらえることがほとんどでしょう。
ぼくらの所属していた講座では大学院を終わったくらいでないと当時の「助手」-文部教官でしたーには採用してもらえませんでしたが,大学によりそのような制約が無いのは確実です。専門医資格も無く「助教」になるのですからそういった制約は現在でも無いのだと思います。
現在でもぼくの職場では「助教」のポストには公募が行われることがあり選考委員会が開かれますが競争率が100倍などということはありません。多くの場合准教授の選考でも競争率は2倍です。

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ぼくの場合,大学院の終わりくらいから他人のアイデアで実験をしたことはほとんどありません。例外はGLS研に滞在した期間の一部の研究だけです。
当然研究費は自分で取るしかありません。麻酔科の助手に奇特な誰かさんが大きな予算をつけてくれるわけではありません。日本学術振興会の研究費を取って研究を続けるしかありません。どこかのエライ先生方が審査をしてくれるそうですが自分の感覚では種目を限れば結構当たります。年に1千万程度の資金をコンスタントに集めることができれば3−4人の大学院生と研究を続ける事は十分可能です。もちろんそんな小さなお金ではポスドクなどを雇うことはできません。というわけで今まで10人の大学院生に学位を取得してもらいました。
研究で一番大切なのは質のよい「大脳皮質」であり,たぶんぼくの頭がすばらしければこのような環境でもすばらしい論文を出し続けることは可能なのでしょうが,なかなかそううまくはいきません。
それでもぶらぶらと道草を喰いながら歩いていれば500回くらいの引用回数を記録する論文を出すことは可能です。
当該研究分野の研究者なら当然全員その論文を読んでいるに違いないという論文をぼくはごく控えめに少なく見積もって4編は出したと思っています。
それくらいで満足する以外に術はありません。

ぼくにとっては今までの研究人生はこれでなかなか楽しいものでした。

全員がNature, Cell, Scienceに論文を出すことはできないし出す必要もないのです。

というわけでどこでもいいので臨床講座の助教になってみるのはどうでしょうか?
なんていうとバカにするなとかいわれそうですけど世の中の制度に不備がある状況でしかしあくまで現行制度で研究生活を継続するためには戦術を考える必要はあると思います。まず自分の研究室をはじめる,それが先決です。

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御大がこんなtweetをしておられました。
御大レベルでもとおもいびっくりしました。ぼくなどもちろん誰もカレンダーなど持って来てくれません。
それでやはり御大です。tweetすればちゃんと届けてくれる人はいるようです(参照)。


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