基礎と臨床の間
「基礎と臨床の間」と題したブログエントリーを読んで考える事があったのですこし書いてみます。
このような問題は論者の「立場」によって大きく左右されると思います。
以下の意見は臨床と基礎研究を約20年間いわゆる二足のわらじをはくような形態で行ってきて今なお基礎研究に従事している麻酔科医の意見です。 おおざっぱなぼくの研究業績は以下のリンクからご覧頂けます。(参照)
まず2000年から昨年までのノーベル医学生理学賞を受賞したテーマをwikipediaから抜き出してみました。
- 2000 神経系における情報伝達に関する発見
- 2001 細胞周期における主要な制御因子の発見
- 2002 「器官発生とプログラム細胞死の遺伝制御」に関する発見
- 2003 核磁気共鳴画像法に関する発見
- 2004 におい受容体および嗅覚系組織の発見 -2005 ヘリコバクター・ピロリ菌およびその胃炎や胃かいようにおける役割の発見
- 2006 RNA干渉-二重鎖RNAによる遺伝子サイレンシング-の発見
- 2007 胚性幹細胞を用いての、マウスへの特異的な遺伝子改変の導入のための諸発見
- 2008 子宮頸癌を引き起こすヒトパピローマウイルスの発見
- 2009 ヒト免疫不全ウイルスの発見
- 2010 テロメアとテロメラーゼ酵素が染色体を保護する機序の発見
- 2011 体外授精技術の開発
- 2012 樹状細胞と、獲得免疫におけるその役割の発見
- 2013 成熟した細胞に対してリプログラミングにより多能性(分化万能性)を持たせられることの発見
確実に臨床現場とカップリングしているものは、2003年のMRI, 2005年のピロリ菌、2008年・2009年の病原体ウイルスと2011年の体外受精です。 これが基礎研究から「出発している」かどうかのは評価は難しいとおもいますがrandomized control trialなどのいわゆる臨床研究から出発したものではないことは確実だと思います。
それでは1980年代のテーマを見てみましょう。
- 1980 細胞表面において免疫反応を調節する、遺伝的に決定された構造に関する発見
- 1981 大脳半球の機能分化に関する発見 視覚系における情報処理に関する発見
- 1982 プロスタグランジンおよびそれに関わる生物学的活性物質の発見
- 1983 可動遺伝因子の発見
- 1984 免疫系の発達と制御における選択性に関する諸理論、およびモノクローナル抗体の作成原理の発見
- 1985 コレステロール代謝の調節に関する発見
- 1986 成長因子の発見
- 1987 抗体の多様性に関する遺伝的原理の発見
- 1988 薬物療法における重要な原理の発見
- 1989 ガン遺伝子のレトロウイルスが細胞起源であることの発見
1984年のモノクローナル抗体、1985年のコレステロール、1986年のgrowth factorの発見と1988年の治療薬開発の筋道の確立は確実に現時点から考えれば臨床を変えたといえると思います。
こうしてみると1980年代のノーベル賞医学生理学賞成果と臨床との「距離」は最近のものも大して変わりはないですね。最近の方がより実利的になっているという傾向はあると思います。化学賞に一般的には生命科学のテーマが選ばれることが多くなっているいることと関連があるかもしれません。
まず確認しておきたいのは、研究成果はノーベル賞を受賞するような科学史に燦然と輝くようなものでもそうそう簡単には日々の医療を変えるというわけではないということです。 また基礎的な発見が臨床に持ち込まれるまでには相当に長い助走路を走るというか歩く時間が必要だったものもあります。
なので大学院生が4年間で臨床を直接変えるような研究をするという確率はすごく低いと思います。基礎と臨床の距離はこの段階では無限大かもしれません。
ところで上記のここの業績の具体的な内容について解りますか? 解らなかったらヤバいですよ。 解らない人は生化学・分子生物学の教科書を読んでみて下さい。
- カラー図解 アメリカ版 大学生物学の教科書 第1巻 細胞生物学
- カラー図解 アメリカ版 大学生物学の教科書 第2巻 分子遺伝学
- カラー図解 アメリカ版 大学生物学の教科書 第3巻 分子生物学
- Life: The Science of Biology
しかし、最近はその「距離」を駆け抜ける速度が上がっていると感じます 最近の研究成果ですごいなーとため息交じりに見てしまうほどすごいとぼくが思っているのは間野博行先生のEML4-ALKの発見から治療薬の開発までの流れです。
EML4-ALK研究の一連の流れは日本の医学研究に立ち上がった金字塔の一つだとぼくは考えています。
基礎研究が直ぐに臨床に役立つなどという考えを持っているとたぶん裏切られます。でもこのような金字塔は一見無駄に終わった下支え無しには建つわけはありません。 これはそういうものなのです。
ぼくが大学院に入るとき当時の麻酔科の教授に言われたことがあります。 「臨床に役立ちそうだとあなたが考えるような(のような素人がぱっと考えつくような)研究はするな」ということです。まず科学としてしっかりとした研究をすることそれが万が一にでも臨床に役立つようなことがあればそれはそれで幸福なことだと思って研究生活を送れということでした。10年後に「モノ」になるような息の長い研究テーマを選びなさいとも言われました。
じゃあなんでぼくは臨床をしながら基礎研究をしているのかという問いが残ります。 「若者たち」という歌でうたわれるこんな素朴な疑問です。 自分でもこれについては最近までうまく言葉で表現できませんでした。
「暇と退屈の倫理学 」という本があります。
三回くらい読みましたがなかなか含蓄のある内容だと思います。
この本を読んで得心したことがあります。
ぼくにとっては基礎研究は「暇と退屈」(暇と退屈の倫理学でいう)しのぎの手段なのだと言うことです。 実は麻酔科医としての臨床活動も少なくとも自分にとっては「暇と退屈」(暇と退屈の倫理学でいう)しのぎの手段なのだということも一緒に解りました。
ぼくは大学を卒業後麻酔科教室に入ってはじめの4年間は一心不乱に麻酔科臨床に関わりました。 4年後、当時の基準である程度の知識・技量が身についたと自分で判断して大学院で基礎研究を行う事にしました。 自分なりに取り組んでみたいと思っていたテーマがあったのです。結局紆余曲折を経てそのテーマを追究することはできませんでしたが4年間の大学院生活はいわゆる基礎研究室で送ることになりこの4年間が決定的にぼくの研究生活に影響を与えることになり結果としてその後も基礎研究に取り組むことになりました。
基礎研究を行う事はぼくに取ってはとても楽しく、ある程度の研究成果が上がると益々研究が楽しくなる、というサイクルで20年間過ごしてきたのです。
臨床活動も同じです。
学生実習でうちの学生に話すことは、医者ほど、知的作業と肉体作業の融合した商売は無いということです。頭と身体を使って働く、それが多くの場合には人のためになるような商売の一つに医者というものがあります。
基礎医学というか生命科学者に必要な論理的思考力は臨床医に必要は論理思考力と本質的にはまったく差異はないとぼくは考えています。大学院生として基礎医学研究に従事したから論理的な思考力が涵養されるわけではないし、そのような論理的思考力がないとそもそも臨床医としてまともに働くことができない類いのものだということです。
まさに「学位をとるか取らないか、という二元論的議論はすでに意味がない」のです。 普通に基礎医学・生命科学の分野で研究を続けるのであれば医者であるなしに関わらず「学位」は必要なものだとぼくは思います。研究室で試験管を振るなどの直接的な実験に関わるためには学位は必要では無いと思いますが自分で自分のテーマを追究するために研究室を経営するためには通常は学位は必要となります。 それは臨床医がある診療分野の専門医として生きていくならば「専門医」の資格が「必要」なものであると同じようなものです。
まとめると 「基礎研究を行う事」の意味を考える事には、全く何の意味も無い。 「学位」の意味を考える事には、全く何の意味も無い。 ということになります。
「暇と退屈の倫理学 」ですが、最終章は「結論」で締めくくられています。
「暇と退屈の倫理学」の実践のための三つの結論が解説されています。
一つ目の結論
「こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要はない」というものです。
二つ目の結論
「贅沢を取り戻す」こと。
三つ目の結論
「動物になる」こと。「待ち構える」という表現がかっこいいです。
以上の三つです。
解説しません。興味があれば本を読んでください。
結論としてはだから若い医者は基礎研究にも挑戦してもらいたいとぼくは考えています。
土曜日に同門の先生方の送別会をしていただきました。
ぼくの場合は、特に栄転でも無いと思うのですがありがとうございました。
研究室の過去と現在の院生からはクリスタルの置物をいただきました。
Illustratorのfileを送るとそれに従ってクリスタルに加工をしてくれるのだそうです。
休み終わっちゃいました。
New York Timesから
Ghostwriting Is Called Rife in Medical Journals
Lasker賞は Gleevecのチームも受賞なのですね。iPS cellもすごいけど。
個人的には epigeneticsでノーベル賞がそろそろ出ていいと思っています。iPSは今年でなくとも確実は確実だろうし …
「1968」読了しました。
冒頭の一文「感動しました。とてもすばらしいです。でも私には何もないの。それでは闘ってはいけないのでしょうか?」からはじまってこの文章で終わる 2000ページ超の大著ですーといっても上・下それぞれ100ページほどは”注”と索引になっていますー
第5章 慶大闘争
第14章 1970年のパラダイム転換
第15章 ベ平連
これらでは知らないことも多く参考になりました。
ベ平連の中心に小田実でなく石原慎太郎をという意見もあったというのは悪い冗談の様な気もしましたが当時はそういう作家だったのでしょう。
ぼくがあと一廻り早く生まれていたら、検証された「1968年」に間違いなくどっぷりと関わっていただろうと思うと同時に一廻り早かったら大学に進むことともなく今とはまったく違う人生を歩んだことになっていた可能性もあったと思っているので改めて考えさせられました。
結局遅れてきたぼくの「1968年」は何かと考えると「研究」が当たるのではないかと考えた。
特に深く考えることもなく医学部に入学してそのまま卒業して医者になったのだが入学してから人生で一度は「研究」というものを体験してみたいと考えていた。「真理」の探求とか研究を通じての人類への奉仕とかそういたことはあることはあったと思うがそれより人生で一回は研究生活をしてみたいという気持ちの方が強かったと思う。ー高校生の時にPOMCのプロセッシングの大きな仕事で沼先生と中西先生が「科学朝日」(朝日新聞が出していた一般向けの科学総合誌です)で取り上げられているのを見て京都大学への進学を決めたのですー
つまり「感動しました。とてもすばらしいです。でも私には何もないの。それでは闘ってはいけないのでしょうか?」である。
そういう理由だったので医師免許を取得して丸4年臨床に専念し、その当時の水準でいえば一通りの手術麻酔は自分ですることができるという自信もついたところで大学院に進学した。
いろんな経緯があって、麻酔科内の研究室でなく京大のウイルス研究所の研究室にお世話になることになった。このときの経緯は以前に書いたことがあったと思う。
またこれも以前に書いたのだが、4年間は一つの論文もなくほぼ啼かず飛ばずのどうしようも無い大学院生だった。不思議とそれに対しては特に焦りもなく毎日実験に励んでいた。自分のやっていることが価値があるとか無いとか役に立つとか立たないとかを考えた事も無かった。将来への展望とかそういったものは全く持っていなかった。臨床医だったので路頭に迷うことはないだろうとは考えていたということもある。この時期は研究というより実験することそれ自体が態度の表明であり、意味をもつ運動であった-一種の中毒である-。
そうこうしているうちに4年が過ぎ結局は京大の麻酔科で働くことになったー引き取られて行ったというのが正しい表現かもしれないー。学位の為の研究は完成はしていなかったので実験材料とともにウイルス研から引っ越した。
そこから3年3ヶ月はたぶん人生で一番働いた時期だった。集中治療室で働く、麻酔をする加えて救急車の対応もしていた。CPA, 農薬中毒、全身熱傷、腹腔内出血などかなりの患者が救急車で運ばれてきた。ホットラインへ連絡があり、4階から1階の救急外来に降りて救急車を迎えるときのあの感じは今でも鮮明に記憶している。救急車の進入口が研究室の真下なのですが救急車が到着すれば救急外来に出かけたりということもあった。のぞき込むと胸部圧迫をしてる姿が見えるので放っておくわけには行かなくなるのだ。
当直は集中治療室でしていたので当直中は部屋の外にでるのは救急外来か病棟で患者を診るときだけで研究室には戻れなかった。これに加えて研究活動も継続していた。
程なく学位を取るための論文が完成したーこの論文はぼくの関わった論文のうちの最高のものだと自分では今でも考えているー。麻酔科での指導者はいなかったので学位の講演会の予行演習などもなしで自分だけで臨んだ。
ここで転機が訪れ米国に留学ということになった。留学にははじめは気が進まなかったのだがこれまたいろんな経緯を経て結局は GLSの研究室に参加することになった。
留学の一番大きな目的は、臨床のdutyーdutyだけでなく臨床が完全にないーがない環境下に自分がおかれた場合どれほどの事が研究でできるか見極めたいということに決めた。
留学中は、FIH-1もとれたし,某遺伝病の解析にも参加できたしまあまあの成果が上がったと思った。
研究だけに専念すればこのくらいにはできるのだという妙な自信もついたー後にこれが仇になるー
今から思えばもっとやっておくべき事はたくさんあったのだそうがんばる必要もなかろうと日和っていた訳である。
帰国時に、某研究所に就職したのが「1968年」的な観点からは失敗だったかもしれない。
そもそもの始まりは研究成果が生物学・医学の発展に役立つというよりは研究自体は自己確認の手段だったのであるが、研究所で研究をすることを生業とするという気負いで先鋭化していったのだと思う。
せめてもの救いは、ぼくの研究室に参加してくれた学生が数名いてくれて彼らとの人間的な交流があったことだろう。研究所を辞して、研究所付きの病院に異動して救われたと思った。今から考えればこの病院でのスタイルがぼくには一番あっていたのかもしれない。この期間の研究成果にはいまでもとても満足している。
しばらくして大学に異動してからはぼくの余裕がなくなり大学院の学生にも大変な迷惑をかけてる。大きな意味での研究活動は、基本的には自分のために行っていた「1968年」的性格を完全に失った。
研究にもいろんなものがあり最近では”役立つ”研究が重視される傾向にある。役立ちそうでかつ基礎的にも価値のある研究もたくさん存在して iPS cell研究などその好例であろう。
はじめに手がけた thioredoxinに関してもまた 10年ほど前から手がけている HIF-1にしてもまだ解かれていない基本的な問題が散在している。研究の進展とともに新たに生まれた問題でなく10数年前から解かれていない問題もたくさんあるのだ。これらを解くことで「1968年」問題に決着をつけて残りの人生を送りたいなという気持ちは強い、のですが難しいかもね。
時間があったので休みに「鶴見俊輔~戦後日本 人民の記憶~」の録画してあるのを見直しました。
ついでにこれも観た。