日本語で科学をするとは

On 2015/2/16 月曜日, in hypoxia reseacrh, by bodyhacker

日当直でした。何もありませんでした。珍しいです。

午前中にどうしてもしないといけないいくつかの事を済ませてしまっってどうしようかと思案して調べ物とか読書に時間を当てていました。


学生と実験しています

このところ学生と一緒に実験をしていますorしていました。 一回生で「研究医養成コース」と三回生で「配属実習」とのプログラムに参加している学生たちとです。

結構単純な実験系を使っての実験でそれなりの「結果」が出てきて一安心です。

 

– まず習得してもらうのはピペット、ピペットエイドの使い方です。 まずやってもらうと力が入りすぎて”おぼちゃん”みたいな不自然な持ち方になってしまうのです。何度かやってもらいここら辺が自然になってくると一応合格となります。

麻酔科研修に訪れる研修医くん・さんたちのマスク・喉頭鏡の持ち方も自然に見える人は大抵うまくできています。

 

– 次は実験の手順を頭にいれるということです。考えならが実験を進めると手順を間違ってしまうことにつながります。

 

– でも一番大切なのは一回一回の実験の目的の把握とそれに基づいた実験の遂行です。

96 wellのplateを使う実験などではいくら8連のピペットを使っていてもplateの左右・上下では処理に時間差などが生じてしまいます。

実験の目的にあわせて薬剤処理の順番などを決める必要がある場合もあります。一番大切なポイントを決めて実験ごとに微調整できるようになれば一人前ですがこれはなかなか実現は難しいです。何度かパイロット実験をしないと明らかになってこない場合もあります。

 

単純な実験でも議論しながら行うと学生の行動様式が変わってくるので面白いです。

 

この実験思いの外うまくいってちょっと実験を追加して論文にまとめたいです。


読んだ本二冊

一冊目

日本語の科学が世界を変える

世界をリードする日本の科学・技術。その卓抜した成果の背景には、「日本語による科学的思考」がある という仮説から出発した日本の科学論です。

生命科学の領域では、基礎研究でも臨床研究でも少なくとも原著論文は英語で書く場合がほとんどだと思いますが、

ここで英語を「使う」からといって「英語で科学をしている」という言い方はできないと思います。 少なくともぼくの場合、「日本語で考えて」いるしその意味では「日本語で科学をして」います。 留学していた初年度はlabで日本人はぼくだけだったので否応なく英語を使っていましたが「英語で科学をしていた」という意識はありませんでした。

医学教育に限っても日本は日本語だけで6年間の医学教育が可能となっている世界の趨勢から見れば特別な国です。 リアルタイムで外国の最新の知見を取り込むとかそのような必要に迫らなれければ英語が必須な訳ではありません。また最新の知見を臨床現場に取り入れていくことが必ずしも患者のケアの向上につながらないという場合もあります。いくつかの研究が揃ってメタアナリシスができる位に時間的な余裕があれば日本語での解説などもいくつも出てきますし日本語の医学系の雑誌もいくらでも存在して毎号結構興味をそそる特集が組まれます。 それ故独自の進化を遂げているという側面があります。

 

この「日本語の科学が世界を変える」も英語を使わずに日本語で論文をかけというような単純な議論を展開している訳ではありません。

養老孟司先生は実は英語がすごく得意なのだそうですがこんな事を言っています。

英語論文でも、英語と日本語の文化の違いからさかのぼらなくてはいけない。英語論文を書くときに、僕が二つの言語の性質の差を感じるのは、英語の文章を書くためには、日本語で記述するときとは違った部分を観察しなければいけないということ。僕が日本語の頭で観察するでしょ、観察が終わったと思って、今度は英語で書くでしょ、すると、途端にわからなくなって、現物に戻って見直すということがあるんです。なぜなら、英語の文章になるためには、ここが抜けていたら文章にならんというのがあるんですよ。主語が典型的にそう。日本語だったら、主語を省略することだってできる。でも英語では、「はて、主語は何だったっけ」と確認しなければいけない。

この議論と似通った主張も含まれていますがそうでない議論も含まれています。

日本語の科学が世界を変える」 は、一読の価値はあると思います。

 

二冊目

最相 葉月さんの「れる られる

「れる られる」とは、助動詞の「れる」と「られる」のことです。

人の一生で受動と能動の転換点または境目を「生む・生まれる」「支える・支えられる」「狂う・狂わされる」「絶つ・絶たれる」「聞く・聞かれる」「愛する・愛される」の六つの動詞をきっかけに考えた一種の随筆です。

どの章も読むと考えさせられる内容なのですが、第四章「絶つ・絶たれる」研究不正、ポスドク問題を扱っています。絶つ・絶たれるとは文字通りの人生のことです。

医学部の授業で使ったらよいと思う一冊です。

 


麻酔科学会の資料

日本麻酔科学会が後期研修医向けパンフレットを発行しました。

昨年の秋に学会を通じて学会員には配布されていたのですが最近になって学会のホームページを通じて誰でもが閲覧できる形としたのです。

このパンフレットには、「麻酔科医以外の医師は、なぜ、子供に麻酔科をすすめるのか?」というタイトルが付いています。

曰く

麻酔科医、麻酔科医以外の医師それぞれに、麻酔科医の魅力についてアンケートで尋ねたと ころ、どちらも「QOLが高い」という回答がトップでした

麻酔科医という進路選択を語るうえで「QOLの高さ」は見逃せない要素になります

麻酔科医は基本的に集中治療、ペインクリニック領域以外の、いわゆる手術室におけ る麻酔管理に関して主治医になることは、まずありません。ですから、サマリーを書くことも、 まずありません。医師の業務のなかで、詳細なサマリーをまとめる労力と時間は、たいへん大 きな負担になっています。そうした負担から解放される事は、他科の医師から見て「正直、羨ましい」と思われているところもあるようです。

ここでいうQOLとはいわゆるQOLMの事でこれが麻酔科の魅力のトップであると学会が公言するのは問題があると思います。もっと言えば恥ずかしいです。

「サマリー」を書かなくてよいことがそんなに素晴らしいことなのでしょうかそれもぼくにはよく解りません。

やっぱり何か変だぞというような議論はなかったのでしょうか。不思議です。

今日あるブログエントリーを読みました。(『社会貢献曲線』 〜社会インパクトを最大化しようと思ったときに〜)

「社会インパクト」と「スキルレベル」の関係のグラフが書かれていて曲線に「多くの社会貢献活動で必要とされる領域」と「本業の人たちの領域」という二つの領域が存在するとの議論です。

医者にもいろんなレベルがあって「多くの社会貢献活動で必要とされる領域」で働いても社会へ与えるインパクトでは低くなくある意味すごく大きいともいえるのです。しかしこの領域は条件によっては他職種たとえば看護師にとって変わられる可能性も秘めています。「医師免許」に守られているのですね。

 

 

 


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昨日は日当直でした。電話は何本もかかってきたのですが「出動」要請はなく平和な24時間を過ごしました。

雑用とは呼べない重要な仕事が山積みでいくらやってもOmniFocusのlistが減りません。 ここしばらく実験にうつつを抜かしていた「つけ」がまわっているともいえます。

少し前にNHKで病院内のコンビニを72時間定点観測するという番組が放送されました。(ドキュメント72時間「大病院の小さなコンビニ」)

最近では院内にコンビニがある病院は珍しくなく前の職場でも、前に通っていた兵庫県北部の病院でもチェーン展開をしているコンビニが営業していました。7時から22時までが営業時間という場合が多く24時間営業は経験したことがありませんでした。

でも昨年の4月に今の職場に移ったのですがコンビニは24時間営業です。3時(15時ではありません、念の為)くらいでも誰かいたりするのでびっくりというか味わい深いものがあります。

番組自体は作りすぎの感がありました。普通、もっと淡々としていますよ大病院のコンビニは。


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鷲田清一さんの「哲学の使い方」を読みました。

感動的です。 岩波新書の王道を堂々とゆく一冊。

同じ岩波新書の一冊である「知の旅への誘い」を読んだときと同じ種類の感動を味わいました。

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@biochemfanさんのブログエントリー「私が実験科学から脱落した3つの生物学的要因」を読みました。

実験が大好きだった@biochemfanさんがなぜ諸事情で実験を主体とした研究活動から挫折したかを自分語りで説明したエントリーとなっています。

とても他人事とは思えなかったのでちょっとこの件で書いてみます。 (以下、「だ」・「である」調になります)


「3つの生物学的要因」とは

  1. 実験が不安でたまらない
  2. 不注意な自分が信用できない
  3. 予定変更が辛い

の事だ。

個々の要因ごとにその意味合いが記述されている。 個人的な事情や想いを差し引いても”wet”な研究に研究の初期からぼくも感じていたことだ。

 

1. 成功体験で克服したつもり

実験を始めて最初の5年特にはじめの3年はすごくつらかった。研究室はいわゆる「名物ラボ」だったがそれは大きな問題ではなく、要因1と要因2が主原因。

いつもうまくいかずに翌日も実験するのが怖い、何かデータが出てもこれが正しいということに確信が持てないという事がずっと続いた。

麻酔科から基礎教室にお世話になっていたのだがいつ麻酔科に逃げて帰ろうかというような事ばかり考えていた。

結局何か踏ん切りがつかずにまるまる4年いてその後麻酔科に「回収して」もらった。 すでに妻子もあり自分勝手はできないなどと殊勝なことを考えたという事もあったし、麻酔科の教授からは破門されていていて今さらという気もあった。

とにかくはじめの3年を乗り越えて何とか気が楽になった。昔でいう研究班会議などにも出席させてもらい当時の分子生物学・細胞生物学の一流どころとか一流ラボの若い衆と話していく過程で何とか続けてゆく事ができた。 あれはわざとそうしたのだと思うのだが、部屋が一緒で川の字になって結構偉い先生方と寝たりもした。なんぼなんでもそういう状況ではいろいろと話してくれるわけです。皆さんそこそこ苦労していたのだ。 このブログで何度か書いているが初めての論文は難産の結果出てその結果、はじめの5年のつらさをまさに一種の「成功体験で克服」したつもりになった。そこが@biochem_fanさんとの違いだろうか。

結局、そんな感じで、その後の5年位を突っ走った。 自分たちが出した結果がそのまま受け入れられるような研究分野に携わったっていたので10篇分くらいはsubstantialなrevisionなどしなくとも論文が受け入れられたので幸せだった。

最初の5年での小さな成功体験よりよい大きな成功体験を次の5年で得てしまいそれでで泥沼にはまっていったともいえる。

結局その後は自分であんまり実験をしなくなったのでwet特有の要素に自分自身が余り苦しむことはなくなった。


だから、私は robust (頑強)でない実験系は嫌いである。

例えば、DNA ワークを考えてみよう。50 ul の系で DNA を制限酵素処理するとして、制限酵素を 1 ul 入れるべきところ、ピペット操作の不手際や勘違いで 2 uL 入れたとしても、まあ大抵は大丈夫。FSEC (蛍光ゲルろ過クロマトグラフィー)によって蛋白質の安定性を評価するのも、見るのは void peak とモノのピークの相対的な高さの違いだから、全体量がズレても害はない。一方、定量的実験、たとえば放射性同位元素を使った基質結合アッセイで、サンプルを 1 uL 入れるべきところに 2 uL 入れたら、結果が 2 倍変わってしまう。こういうのはダメだ。私は自分の目も指先も信用していない。もちろん、サンプルを希釈して大容量の系で実験することで誤差を減らすといった工夫が可能な場合もあるが、そうでない系も多い。

ここら辺の感覚はぼくも同感。いまでも”robust”でない実験系は本能的に避けているというかそれだけで実験系を作ってそれで押していきたいと常々思っている。

その結果、論文を投稿してもああだこうだといわれるのだがこれはこれで仕方ない。 ある意味自分のやりたいようにやっているのだからそれでいいのである。


2.バカで「dry」にいけない

ぼくが院生としてもがいていた時代は「wet」「dry」みたいな区別もなく医学系の大学院の研究というのは「wet」しかなかった。

当時もし「dry」が選択肢としてあったとしても多分のぼくの頭の「悪さ」ではついていけなかっただろうと思う。

頭の「悪さ」ということ自体少し強迫観念的な言い方というか思いかたで他人は「おまえの頭が悪いということはないのでは」と思われるかもしれないがとにかくぼくには「基礎能力が決定的に自分には欠けていると」いう想いがずっとある。今風にいうなら「地頭」が悪いと自分では思っているのである。

これはたぶんぼくの知的履歴と関係している。なにせ高校の2年くらいまでは「頭を使う」ということをしてこなかったのですごく重大な欠落を自分は抱えていると思っているのだ。田舎の公立の小中高で成績を残す為に頭を使う必要などまったくない。教科書を何回か読めばほとんど書いてあることはほとんど暗記できるのだから。ぼくの通った小学校は宿題はないし家に教科書を持って帰ることが禁じられていた。友達と暗くなるまで遊んで帰宅してテレビを見て図書館の本を読むくらいしかない。中学生になって友人と遊ぶのが部活動になっただけだ。高校の入学試験の2週間前まで距離スキーを続けさせられた。お前が入学試験に落ちるわけはないからという理由である。

とにかく頭を鍛えるという過程なしに育ってしまった、という想いから自由になることがいまだにできない。

灘中学の入学試験の算数の入学試験を解いてみたことがあるのだがすごく時間がかかった。塾の回答をみるとまるで解法が違う。都会の賢い小学生はもっとクールに解くのだと悟った。

こんなことに気付いたのは大学に入ってからだ。

なので「dry」はぼくには無理。

 

 

凡そものが解らないという程不思議な事実はない、ともいえるのだ。つまり解らないことにも「程」がある。

このような「バカ」の自覚はぼくがなぜ麻酔科の医者をやっているのかと自分の頭の中では深い関係があるのだがこれについてここで詳述する時間がないので今日はこれでお終い。


以上ブログエントリーをきっかけに研究人生を「哲学」(物事をすこし深く考えるという意味)してみた。息苦しさを抱えたこの時代に、基礎研究生活に、人生において哲学をどう「使う」かですよ重要なのは。

@biochem_fanさんはたぶんぼくと同窓だ。 臨床実習とかで一度くらい話した事があるかもしれないしもしかしたらぼくの授業を聴いたことがあるかもという微妙な世代差です。機会があれば一度話してみたい気もする。

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