金曜日に学内の研究コンソーシアムの成果発表のコロキウムを開きました。

学外からのゲストもお呼びしてぼくとしては満足のいく会が開催できました。 会の後の打ち上げでワインを飲みすぎました。

 

土曜日の朝から日当直でした。 O方先生とでしたので論文の作業を進めることができると期待していましたが前日からのcarry overで途中すごく眠くなり作業効率が爆減してしまい加えて深夜に某緊急対応が未明まで続き予定の50%,全体の25%位まで進んだということで取りあえず満足しました。


東北関連の本

土曜日は東北大震災から6年でした。

少し前に,「魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─」という本を読みました。

ノンフィクション作家の奥野修司氏が東北大震災の遺族たちを訪ね取材した「霊体験」-まさに霊体験としか言いようの無い体験です-を紹介した本です。あまりにリアルな体験ばかりです。 小林秀雄氏の「学生との対話」に収録されている「信ずることと知ること」はこういうことにどう対峙するのかという小林秀雄の考え方が述べられています。

 

東北と言えば宮沢賢治の評伝 「宮沢賢治の真実 : 修羅を生きた詩人」を昨日から読み始めたのですがこれもすごいです。

大学生の時に見田宗介さんの宮沢賢治の評伝「宮沢賢治―存在の祭りの中へ 」を読んで以来の衝撃です。

宮沢賢治―存在の祭りの中へ 」は現在は岩波現代文庫の一冊となっています。


Natureにこんな記事が出ていました。

記事に引用されている図は”the American Council on Science and Health”という団体が発表したものです。 一言で言えば米国の科学報道は相当危ないから眉に唾を付けて受容する必要があるという主張です。

Natureのこの記事では,ここのratingの当否は置いておくとして実態はそう単純でないと結んでいます。

日本でも,医学的には不適切と思われる健康情報がネットや既存のメディアで不適切に取り上げられて社会問題化しているという状況があります。 日本でもこういう団体があると参考になるのでしょうか。大手新聞は軒並み「右下」圏外となるかもしれません。


「悪魔の勉強術 」

枚方市駅前の蔦屋書店は朝7時から開いています。土曜日の日当直で読もうと思った本を仕入れに土曜日の朝寄ってみました。 そこで入手した本を紹介します。

「悪魔の勉強術 年収一千万稼ぐ大人になるために」 です。

同志社大学神学部特別講義を完全収録

ということで佐藤優さんが同志社大学神学部の学生を対象に2016年の6月から8月にかけて行った4回の講義の内容がまとめられています。 1回5時間の長丁場。 一読まとまりが無い感じもあったのですが通読すると味わい深い本です。

目次は

  • 第1講 天国か地獄か
  • 第2講 天使のように貪欲に
  • 第3講 悪魔のように勤勉に
  • 第4講 復活の日に向けて

といった感じで神学部仕様となってて実際の広義もキリスト教神学に関する話題から入って行きます。この部分もなかなか味わい深いのです。 年間1500時間,悪魔のように学ぶことを勧める一冊です。

p223-p227のアドバイスは淡々と語られる故に説得力があります。

p286『「神学者」佐藤優はこうして生まれた』以降から最後までも読み応えがあります。

これは必読ですよ。 これでたったの702円。Kindle版もあります。

同志社大学神学部も一緒に読んでね。

 

研究者を目指す人は悪魔のように実験しましょう。これが言いたかったのですけど。

ぼくも大学院の時は,臨床関連の某学会とか某学会とかには4年間参加しませんでした。でも某学会の指導医にはズルせずになれました。いい時代だったんですね。

一年360日くらい実験していた年もありました。それで何とかなった友いえますが,家内にはそれでもこれだけって意味がないとも言われます。


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存在の祭りの中で-宮沢賢治

On 2012/1/8 日曜日, in book, books, Thus Spoke Dr. Hypoxia, by bodyhacker

週末に「宮沢賢治の音楽会」という番組の録画を見ました。昨年の秋に放送されたもののようです。
NHKの企画力に舌を巻きます。
手嶌葵さんが高原(参照)で歌った「牧歌」と一青窈さんが歌った「花巻農学校精神歌」に特に感銘を受けました。

宮沢賢治は大学生の時に「宮沢賢治―存在の祭りの中へ(20世紀思想家文庫 12)」を読んで以来づっと読み続けてきました。岩手の彼にゆかりの場所も訪ねたことがあります。

宮沢賢治―存在の祭りの中へ」には非常な影響を受けました。人生でもっとも影響を受けた本ベスト10に確実に入ります。今でも時々読み返します。昨日も読み返しました。
宮沢賢治ほど「わたし」・「自分」とはどういった存在なのかを突き詰めて考えて実践していった人はいないと思います。
宮沢賢治は生涯に渡って自らの作品の改訂を行っていました。その改訂の様子は先人の努力で「校本全集」という形で出版されています。つまり彼の思考の履歴が本にまとめられているのです。「存在の祭りの中へ」へもその校本を読み解いて賢治の思想をたどるという手法を採用しています。
この本は高校生でも読めるように著者が意図して書いた本だそうです。その意味では賢治の小説,詩,童話を読破していないと理解できないような難しい本ではありません。実際にほとんど「文盲」に近い家内も読み始めました。

例えばこんな文章があります。

宮沢賢治の作品を読むという行為のなかでわたしたちが経験するのは,そこに展開する物語や「思想」に目を奪われておもしろいとかつまらないとか,深いとか通俗的だとかんがえるそのわたしちを,その反省の手前のところではじめからとらえてしまう,感覚の洗滌作用のごときものである。
わたしたちが,まるではじめからわたしたちじじんのものであったかのように,(そしてほんとうにそのとおりなのだが)いつのまにか作者と共有してしまうのは,存在という奇蹟,存在という新鮮な奇蹟にたいして,これを新鮮な奇蹟として感覚する力のようなものである。

このような表現がごく自然に感じられる著作になっています。

この本を読むと宮沢賢治の著作をすべて読んでみたくなります。
現在では大部分は青空文庫に収録されています。

以前,四方田犬彦氏の「先生とわたし」を紹介したことがあります (参照1, 参照2)。この本でも紹介されている「Lessons of the Masters (The Charles Eliot Norton Lectures)」の邦訳が出版されていることに今朝日本経済新聞を読んでいて気づきました (参照)。ぼくは英語で読んだので多分理解が浅いままです。邦訳も読んでみようと思います。

どのような「師」であっても自分がこの人は「師」だと迷い無く呼べる人を持つことは幸せな事だと思います。
成人してからはこの人は自分の「師」であると無条件に呼べる人が少なくともぼくには四人います。少なくともこの四人との出会いが無ければ今の自分が今の自分ではなかった-良い悪いは別として-と思っています。お世話になったというような「恩師」だけでなく,いわゆる「反面教師」も「師」です。対立して破門を言い渡された事もありますしぼくが興奮して電話機を投げつけた人もいます。しかし全員「師」。

宮沢賢治―存在の祭りの中へ (岩波現代文庫―文芸)
師弟のまじわり


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