「新対話編」を読みました

On 2020/5/7 木曜日, in book, books, by bodyhacker

新対話編

3/14に「雑感: COVID-19」というエントリーを書きました。

この時からCOVID-19に対する考えに変わりはありませんが、家内にいわれて人前ではマスクをするようになりました。

つくづく医学は未だ不完全な学問なのだと思います。

 

正義は剰余から生まれる――いま哲学の場所はどこにあるのか」を読みました。

東浩紀さんをホストとした國分功一郎さんとの対話です。2017年に出版されました。

部分的にネットで読むことができます。 対談の全ては先日出版された「新対話篇」で読むことができます。

途中以下の様なやりとりがあります。 ネットで公開されている部分なので大きく引用します。(太字はぼくが入れました。引用に省略があります)

國分: とくにぼくが大きなインパクトを受けたのは、大衆社会の大衆は「なにも信じていない。だからなんでもすぐに信じる」、そして「なんでも可能だと思っているが、なにも真理ではないと思っている」というふたつの指摘です。そのような状況に対するアーレントの答えは、真理を信じることの回復でした。「信じる」ことはどうしたら可能かを、アーレントは考えようとした。

東: 重要な問題提起ですね。さらにつけ加えて言えば、いまは、ひとになにかを信じさせることが、情報を与えることとイコールだと思われてしまっているんですよね。イデオロギーの問題から疑似科学の問題まで、あらゆることについて「Aか反Aか」というふたつの立場があり、陣営が分かれ、たがいに敵は嘘つきだ、なぜならばこれこれのデータやエビデンスがあるからだと言いあっている。しかし、それはひとを「信じさせる」ことではない。情報をいくら与えても、ひとの意見は変えられない。

國分: 情報提供のテクノロジーはインターネットの登場で格段に進歩しましたが、一方でひとを「信じさせる」テクノロジーに関しては、ぼくたちはまったく原初的なものしか持っていない。それこそ、結局、会って握手するとかがいちばんだったりする。情報を与えることが意味をなさない世界にぼくたちは生きている。

まさに今現在起こっている事です。

ぼくは別に専門家会議の見解を信じろといっているわけではありません。念の為。

 

この「新対話篇」どの「対話」も興味深いのですが以下の二つは特に印象に残りました。

鈴木忠志氏との「テロの時代の芸術」

芸術だけでなくなぜ科学をする必要なあるのか腑に落ちたというかこれからはこういう云い方をしようと思った表現が見つかりました。

原武史氏との「国体の変化とジェンダー」

神々の乱心 (上)(下)」を再読したくなりました。


COVID-19関連研究

COVID-19関連で何もしないのも何なので若い人と協力して論文を一つ作成中です。

多分来週中には(もしかしたら今週中に)紹介できると思います。


青空文庫から

少し前に「推薦図書 10冊 2020年4月版」というエントリーを書きました。

今日は、「青空文庫」から二つ紹介します。

青空文庫」ですから誰でもどこでもタダでお読み頂けます。

好きなシーンを紹介する事にします。

三四郎 -夏目漱石

主人公である小川三四郎にはモデルがいるのだそうです。漱石の弟子である小宮豊隆です。

小宮は、福岡県仲津郡(明治29年京都郡に編入)久富村(現在の京都郡みやこ町)出身の田舎者で上京するのです。

三四郎が上京し同郷の野々宮さんの研究室を訪ねたシーンです。

野々宮さんは物理学者です。

「昼間のうちに、あんな準備したくをしておいて、夜になって、交通その他の活動が鈍くなるころに、この静かな暗い穴倉で、望遠鏡の中から、あの目玉のようなものをのぞくのです。そうして光線の圧力を試験する。今年の正月ごろからとりかかったが、装置がなかなかめんどうなのでまだ思うような結果が出てきません。夏は比較的こらえやすいが、寒夜になると、たいへんしのぎにくい。外套がいとうを着て襟巻をしても冷たくてやりきれない。……」  三四郎は大いに驚いた。驚くとともに光線にどんな圧力があって、その圧力がどんな役に立つんだか、まったく要領を得るに苦しんだ。

三四郎は

たまたまその中にはいってみると、穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしている野々宮君のような人もいる。野々宮君はすこぶる質素な服装なりをして、外で会えば電燈会社の技手くらいな格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念にやっているから偉い。しかし望遠鏡の中の度盛りがいくら動いたって現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかもしれない。要するにこの静かな空気を呼吸するから、おのずからああいう気分にもなれるのだろう。自分もいっそのこと気を散らさずに、生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようかしらん。

こんなことも思うのです。

このシーンの直ぐ後、三四郎は日本近代小説最強のヒロイン美禰子さんを見初めます。

二つ目は

戯作三昧 -芥川龍之介

南総里見八犬伝の作者滝澤馬琴が主人公です。

八犬伝はおわかりのように明らかに水滸伝のパクリです。このことがこの小説の伏線となっています。

芥川も平安時代の物語にネタをもつ一連の小説を発表しています。つまりこの場合の馬琴とは芥川龍之介自身のある側面を代表しているとも言えるのです。

「八犬伝は相変らず、捗はかがお行きですか。」  やがて、崋山が話題を別な方面に開いた。 「いや、一向はかどらんでしかたがありません。これも古人には及ばないようです。」 「御老人がそんなことを言っては、困りますな。」 「困るのなら、私の方が誰よりも困っています。しかしどうしても、これで行けるところまで行くよりほかはない。そう思って、私はこのごろ八犬伝と討死うちじにの覚悟をしました。」  こう言って、馬琴は自ら恥ずるもののように、苦笑した。 「たかが戯作だと思っても、そうはいかないことが多いのでね。」 「それは私の絵でも同じことです。どうせやり出したからには、私も行けるところまでは行き切りたいと思っています。」 「お互いに討死ですかな。」  二人は声を立てて、笑った。が、その笑い声の中には、二人だけにしかわからないある寂しさが流れている。と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。 「しかし絵の方は羨うらやましいようですな。公儀のお咎とがめを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」  今度は馬琴が、話頭を一転した。

その夜のことである。  馬琴は薄暗い円行燈まるあんどうの光のもとで、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は家内のものも、この書斎へははいって来ない。ひっそりした部屋の中では、燈心の油を吸う音が、蟋蟀こおろぎの声とともに、むなしく夜長の寂しさを語っている。  始め筆を下おろした時、彼の頭の中には、かすかな光のようなものが動いていた。が、十行二十行と、筆が進むのに従って、その光のようなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知っていた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行った。神来の興は火と少しも変りがない。起すことを知らなければ、一度燃えても、すぐにまた消えてしまう。…… 「あせるな。そうして出来るだけ、深く考えろ。」  馬琴はややもすれば走りそうな筆をいましめながら、何度もこう自分にささやいた。が、頭の中にはもうさっきの星を砕いたようなものが、川よりも早く流れている。そうしてそれが刻々に力を加えて来て、否応なしに彼を押しやってしまう。  彼の耳にはいつか、蟋蟀こおろぎの声が聞えなくなった。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆はおのずから勢いを生じて、一気に紙の上をすべりはじめる。彼は神人と相搏あいうつような態度で、ほとんど必死に書きつづけた。  頭の中の流れは、ちょうど空を走る銀河のように、滾々こんこんとしてどこからか溢あふれて来る。彼はそのすさまじい勢いを恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐たえられなくなる場合を気づかった。そうして、かたく筆を握りながら、何度もこう自分に呼びかけた。 「根かぎり書きつづけろ。今己おれが書いていることは、今でなければ書けないことかも知れないぞ。」  しかし光の靄もやに似た流れは、少しもその速力をゆるめない。かえって目まぐるしい飛躍のうちに、あらゆるものを溺おぼらせながら、澎湃ほうはいとして彼を襲って来る。彼は遂に全くその虜とりこになった。そうして一切を忘れながら、その流れの方向に、嵐あらしのような勢いで筆を駆った。  この時彼の王者のような眼に映っていたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉きよに煩わされる心などは、とうに眼底を払って消えてしまった。あるのは、ただ不可思議な悦よろこびである。あるいは恍惚こうこつたる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧げさくざんまいの心境が味到されよう。どうして戯作者の厳おごそかな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓ざんしを洗って、まるで新しい鉱石のように、美しく作者の前に、輝いているではないか。……

このような境地を野々宮さんも味わっていたはずだと思いたいです。

実はこのシーンの後にオチがあります。

なので是非最後までお読みください。


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