恒例の大学院生ヘの推薦図書です。 今年は5冊にしました。

毎年代わり映えしないのですが鉄板本だけを集めました。

 

イシューからはじめよ

安宅和人さんの2010年出版の本です。

イシューからはじめよ?知的生産の「シンプルな本質」

世の中の研究はいろいろで生産性の観点が適応できない気の長いものもあります。

しかし、大学院の学生として行うべき研究では生産性はとても重要です。 限られた期間ー修業年限が決まっていますーで成果を出すー論文を公刊するーことが学位の取得にはかかせません。

このための戦略を策定する方法論が書いてあります。

赤ペンを持って心して通読しましょう。

大学院生がまず実現しなければいけない課題はそう複雑なものではありません。

ある程度の実現可能性のある課題を確実に解くということから始めないとその後に遭遇するもっと複雑な課題に向かうことはできません。


発表の技法

発表の技法?計画の立て方からパソコン利用法まで (ブルーバックス)

何回か紹介しました。

諏訪邦夫先生の1995年出版のブルーバックス。

特定のプレゼンテーションアプリの解説書ではありませんーこの本が出版された111年にはPowerPointもKeynoteもありませんでしたー。

「発表」を行うとはどんな行為なのかを懇切丁寧に記述したものです。

  • 発表を練習する余裕のなかたっとき,発表は失敗する
  • 聴衆は教育されることを嫌う
  • 他人の論文の解説は退屈である
  • 質問で立ち往生したら,発表がよかったのである
  • 美しいスライドを使えば,くだらない研究も素晴らしくなると考える人は愚かである

こんな教訓も満載な発表についての教科書です。

1995年に出版された一冊ですが全く問題なく2018年でも通用します。 今まで読んだプレゼンテーションの指南本の中で最高のものであると断言できます。

ぼくも大した研究成果もないので人前で話すことがめっきり減ったのですが話すときは聴衆の数、内容に関わらず準備はします。

当日の朝、布団の中でスライドのイマージが順番に想起されて内容をつぶやけるようになっていれば準備完了ということになります。

amazonではこんなレビューもあります

バイブル的存在

数あるこの種の本の中で最高と思います。 スライド(今ならpowerpoint)でのpresentationの心得など大変役に立ちます。 presentation softの解説ではありません。そこに至るまでの発表の戦略を考えるための本です。must-buyでしょう。値段も安いし。

諏訪邦夫先生には

論文を書いてみよう!

医科学者のための知的活動の技法

などもあります。

本当は 医科学者のための知的活動の技法を読んでもらいたいのですが手に入りにくい状況で断念しています。

せめてkindleで読めるようにしてほしいと思います。


小林秀雄全作品〈26〉信ずることと知ること

以前にも書いたことがありますが理系の学生は一度は読んで損はない「信ずることと知ること」が収録されています。

実はこの「信ずることと知ること」と小林秀雄の講演内容をまとめた両方が収録されれいる文庫本があります。

学生との対話

学生との対話 (新潮文庫)

こちらをお薦めします。 

小保方さんは今でもSTAP細胞の存在を信じているそうです。それはそれである意味尊い事だと思います。

研究でも何かしらの発見は、バンドの濃さのわずかな差を「差」だと信じることから始まります。しかし一方論文として発表できるまでには他人にも知ってもらう必要がありますけど。

まず信じることから始まることは確実だとぼくは思っています。他人のdataを見せてもらってぼくには差が「ない」または差が「ある」と「見える」場合でも本人が差が「ある」または「ない」と強く主張する場合はまずその主張を受け入れてぼくも考え直すということをする場合もあります。

部分的に引用します。

僕は信ずるということと、知るということについて、諸君に言いたいことがあります。信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない。そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。

現代は非常に無責任な時代だといわれます。今日のインテリというのは実に無責任です。例えば、韓国の或る青年を救えという。責任を取るのですか。取りゃしない。責任など取れないようなことばかり人は言っているのです。信ずるということは、責任を取ることです。僕は間違って信ずるかも知れませんよ。万人の如く考えないのだから。僕は僕流に考えるんですから、勿論間違うこともあります。しかし、責任は取ります。それが信ずることなのです。

信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。そうすると人間は集団的になるのです。自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅をきかせるのです。だから、イデオロギーは常に匿名です。責任を取りません。責任を持たない大衆、集団の力は恐ろしいものです。集団は責任を取りませんから、自分が正しいといって、どこにでも押しかけます。そういう時の人間は恐ろしい。恐ろしいものが、集団的になった時に表に現れる。

本居宣長を読んでいると、彼は「物知り人」というものを実に嫌っている。ちょっとおかしいなと思うくらい嫌っている。嫌い抜いています。


科学的方法とは何か

科学的方法とは何か (中公新書)

中公新書の一冊です。1986年に出版されて以来現在でも書店に並んでいる名著です。

いま諸科学が各々の世界で変貌しようとしている。しかもそれは互いに連動し合っている。ゆらぎをはらんだ現実との対話によって自らもゆらぎを示す科学の実像とは何か。本書は生物学、霊長類学、経済学、数学、哲学の第一線が直面する課題を報告、そのもとに二重らせんとセントラル・ドグマ、部分と全体、ポパーの反証主義、カオスとフラクタル、自己組織性などをめぐって討論し、現代思想の核心に迫ろうとする、知的興奮に満たち試みである。

これも研究を志す学生は一度は読んでおいてねという一冊です。

以前書いたものはここからお読みいただけます。


喜嶋先生の静かな世界

喜嶋先生の静かな世界 The Silent World of Dr.Kishima (講談社文庫)

これについても以前書きました

作家の森博嗣さんは最終的は名古屋大学の准教授までされた工学研究者だった人です。 彼の自伝的小説が「喜嶋先生の静かな世界」です。

学問という行為について書かれた美しい小説です。

 

週刊文春の「徹夜本」特集では

— 文字を読むことが苦手だった〈僕〉こと橋場は、好きな数学と物理で国立大学の入試を突破しようと考え、見事に成功する。だが、大学の講義は高校授業の延長に近く、彼の期待したようなものではなかった。すっかり失望した〈僕〉だったが、四年生になって研究室に配属されたことで転機を迎える。卒論指導で出会ったのは、それまで知っていた勉強のやり方とまったく違う思想だったのだ。

助手の喜嶋先生から薫陶を受けた〈僕〉は、研究者という第二の自我を獲得していく。生活のすべてを目の前の研究課題に打ち込み、それこそ息をするのももどかしいというほどに熱中する。しかし、学部から院に進めば、自由と引き換えに研究者はどんどん孤独になっていく。光り輝くゴールなどどこにもなく、どこに進むべきかは、暗闇の中で自分自身と対話しながら決めていかなければいけないのだ。しかも研究には終わりがない。そのことに疲れ、脱落する者も後を絶たないが、〈僕〉は喜嶋先生とこんな会話を交わすのである。

「この問題が解決したら、どうなるんですか?」

「もう少し難しい問題が把握できる」

喜嶋先生は研究者の純粋さを体現する人物で、その態度は徹底している。これほどまでに一つのことに打ち込めるものか、と感銘を受ける読者は多いはずだ。楽な道へ迂回したくなったとき、生活のためだから、と妥協の言い訳を呟きたくなったとき、私はそっとこの小説を取り出して読む。これから大学に進もうという若者にも、ぜひ手に取ってもらいたい。(恋)

評者:徹夜本研究会

(週刊文春 2017.11.2号掲載)

 

このように紹介されています。

研究者である事はきれいごとだけでは難しいと思いますがこういう小説を読むとやはり勇気つけられます。

 

創刊46周年を迎えた講談社文庫が、〝46〟という数字の縁から「乃木坂46」とコラボレーションフェアを開催したのですが山下美月さんの表紙でラインアップ入りしていました。


PDF

週に二回徹夜すれすれの生活を送るとモノをちゃんと考えられない頭になりますね。たぶん脳細胞がどんどん死んでいるのだと思います。


いよいよ「第10回がんとハイポキシア研究会」が横浜で開催されます。

シンポジウムに加えて36題の一般演題であつい議論が繰り広げられるはずです。

当日参加も大歓迎です。


科学的方法とは何か 」という中公新書があります。1986年に出版されました。ロングセラーとなって版を重ねていて,今持っているものは買い直したもので1996年で11版となっています。

折に触れて読み返しています。

良書です。時々の自分の状態によって読む度にいろんな発見があります。

今日はこの本のある一章,経済学者の佐和隆光さんが担当した「夢と禁欲」を「だし」に書いてみようと思います。

この一章は科学的な方法を経済学を含む社会科学の観点から論じた22ページの文章です。

まずポパーの反証主義についての解説があります。

たしかに自然科学であれ人文社会科学であれ,その理論的展開が反証主義者の書く筋書き通りに進むわけではないし,また進んできたわけでもない。問題なのは,いかなる反証をも許さない無欠の理論など存在しようもないはずなのに,なぜか理論は滅多なことでは倒れない,という一件不可思議な事態のゆえんである。

反証主義を厳密に適応すれば「反例」が一つでも見つかればその理論は「倒れる」はずであるのに実際には理論はなかなか「倒れない」ということを指しています。

その理由の一つに「反証のがれ」があるというのです。

「反証のがれ」とは

ラカトシュは,理論の出発点にある諸仮説(法則)を,「堅固な核」に属するものと「防御帯」に属するものとに二分する。

….

ありきたりの防御帯を付けたままで,堅固な核としての仮説群から導かれた帰結が,明らかにデータと食い違った(反証された)と仮定してみよう。とはいえ,それで万事が窮したというわけではない。腕達者な科学者ならば,事の顛末を冷静に見つめたうえで。防御帯をより適切なものに取り替えることによって,ものの見事に理論とデータとの整合性をかなえてみせる(反証のがれをする)ことであろう。かくして,あわや死ぬかと思えた理論は,新しい防御帯の護りのおかげで,以前にも増してかくしゃくたる風情でいきながられるのである。

というほどの意味です。

医療の世界ではこのような「反証のがれ」で生き残っている療法はいくらでも探し出せます。

実験医学的な背景など無しにある程度古くから行われている療法も存在してそのようなものに「エビデンス」を出せといっても出せないという側面もあります。

一方,厳密なRCTの結果例えばNew England J Medicineなどで発表される研究から導かれた「evidence」でさえ「反証のがれ」を内包してます。医学上の「evidence」は現代においては統計学な有意差でしか語られないからです。ある療法が無効な「反例」はある程度の確率で現れます。

このように医学とくに医療における療法についてのあらゆる言説は「反例」が内包された形でしか存在し得えなのです。つまり絶対的な理論に立脚した絶対的な療法は存在しないと言うことです。

新薬を用いた療法は動物を用いた検討などかなり多くのステップを経て臨床応用に至ります。理論的な武装があらかじめなされています。その場合いくら人のある種の病態を改善する効果が認められないと「証明」されたといってもそれを素直に認めない人が出くることになります。「反証のがれ」を試みるわけです。しつこく追究していくとそのうち都合のよい結果が出てきてそれみろということになります。

市場に出ることのなかった薬剤については事情は単純です。医療の現場では使用されることがないからです。

問題は,一旦市場に投入された薬剤です。 大規模な臨床研究の結果が存在しないまた大規模研究やメタアナリシスが行われて効果が証明できなくともその事実を「知らない」また「無視」してある薬剤を用いた療法を継続することは医師の裁量権の範囲であるなら特段に法的な規制を受けません。

結果明確に有害であるという結果が得られない場合その薬剤は医師の裁量権の範囲で使用され続けていくわけです。

この「科学的方法とは何か 」は一回は読んで見る価値のある良書だと思います。


この前の日曜日に家内と室生寺を訪ねました。

ぼくは大学生の折りに訪れて以来27年ぶりです。記憶の中とまったく同じと思える光景が広がっていてその意味で感動しました。

前回はN山さんと写真を撮るために訪れたのでした。朝真っ暗な時分に京都を出て近鉄の八木で大阪線に乗り換えて室生大野駅からバスでした。朝イチでほとんど人がいませんでした。掃除のおじさんにここが土門拳先生のお気に入りの撮影場所だと聞かされてそこから何枚か取ったのを覚えていました。写真をさっさと取ってバスを待つ間日本酒を呑みはじめました。すごくまずい酒でした。 逆のコースをたどって京都駅まで戻りさらに酒を呑み続けしんどくなって家に帰って寝たという撮影旅行でした。

今度は吉野を訪ねてみようと思っています。

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finalvent氏のブログエントリー「最先端癌治療の費用対効果の話題」を読みました。

自分が麻酔科医であると言うこともあり十分賛同できました。


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