春休みに観たい・読みたい映画・本

On 2016/2/28 日曜日, in hypoxia reseacrh, by bodyhacker

〆切のある原稿にかかっていて98%くらいまで終わったので家内と映画を観に梅田に出ました。

本当に気持ちの良い陽気でした。


門川さんの「春休みに読みたい10冊」に触発されて少し書いてみます。

うちの職場では、3回生の学生が1月に各講座を廻る「配属実習」というプログラムがあります。 実験室でいろんな体験実習をしていただく待ち時間の合間に映画を鑑賞してもらう事にしています。

今年はこの三編でした。

「赤ひげ」という言葉は知っていても映画を観たことのある医学生はごく希です。一度は映画を観てもらいたいと思います。

わたしを離さないで」 は今テレビドラマとしても放送中ですね。映画とはまったく印象が異なりますし強調している点も違うと思います。

伊藤計劃の「ハーモニー」 をアニメ映画化したものを観てもらいたいと思いましたがDVDがまだ利用不可能でしたので今年は断念。

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この他に邦訳のない医療もののnon fictionを三つ勧めておきます。

“Being mortal”ここで“Do No Harm”ここで言及したことがあります。

“When Breath Becomes Air”は今年の2月に発売になったばかりです。

雑誌New Yorkerに抜粋が掲載されています。 ステージIVの肺がんを患った脳外科医Paul Kalanithiの回想録です。

医者という職業を巡るいろんな哀感が書き込まれていて見事です。英語はちょっと難しいかも。


雑誌New YorkerにThe Stress Testと題された文章が掲載されています。

STAP騒動が主題です。

例の手記の出版を受けて書かれた文章で、Vancanti氏本人へのインタビューも折り込まれていて日本で日本語で書かれたあらゆる文章と趣がまったく異なります。ますますこの一件について解らなくなりました。

日本でも小保方さんの手記はでたものの東京女子医大・早稲田大学の人たちや理研でも小保方研で働いていた人たちの声などが一切出てこないので何が何だか解らんという状態です。

英語はすこし難しいと思います。

Annals of Science FEBRUARY 29, 2016 ISSUE

The Stress Test

Rivalries, intrigue, and fraud in the world of stem-cell research.


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「告白」がいると思います

On 2014/7/31 木曜日, in hypoxia reseacrh, by bodyhacker

久しぶりの更新です。

某案件なんとか処理できました。 ここ数週間で200篇くらいの数の論文をメモを取りながら読んでmacに向かい文章を書くという作業を続けてきてやっと完成です♡。

月曜日の朝に原稿をmailで編集部に送ったのでこれで編集部から何か言ってくるまでなにもしません。

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小林秀雄に「蘇我馬子の墓」という文章があります。(文庫本では「モオツァルト・無常という事」に収録されています。

岡寺から多武峰へ通ずる街道のほとりに、石舞台と呼ばれている大規模な古墳がある。このあたりを島の庄と言う。島の大臣馬子の墓であろうという説も学者の間にはあるそうだ。私は、その説に賛成である。無論、学問上の根拠があって言うのではないので、ただ感情の上から賛成しておくのである

こんな風に始まる1950年に「藝術新潮」に発表された一種の随筆です。

途中に

歴史は元来、告白を欠いている。歴史のこの性質を極端に誇張してみたところに唯物史観という考えが現れた。奇妙な事だが、どんな史観も歴史を覆うことはできないもので歴史から告白を悉く抹殺したいという考えが通用する為には、一方、告白なら何でも引受けた文学が発達していなければならない。歴史はいつもそんな風に動く

という部分があります。

何が言いたいかというとオボちゃんの一件です。

「真相」「真相」というのですが皆のいう「真相」ってどんなものなのかよく解らないし,そんなものが明らかになるのかどうかもぼくにはよく解りません。

話がここまでくると、とにかく当事者の「告白」無しには幕は引かれないのではないかと思います。 例えば「有名になりたかった」、「皆をあっといわせたかった」、「誰か特定の人にほめてもらいたかった」とか「株で儲けたかった」とかあるとぼくなんて「そうだったんだ」と簡単に納得しちゃうかも知れませんしその後はもうどうでもいいかという気にもなるかもしれません。 ついでに全てのfigureのレシピなども教えてもらえると参考になりますよね。

「告白なら何でも引受けた文学」というのはこの場合、あの「ムーミン谷のオホホポエム」でしょうか。

New York Timesに面白い記事がありました。 米国の教会で信者の「告白」の記録が見つかったという話です。 お祈りをさぼったとか、結婚前にセックスしちゃいましたとかそんな話です。 “In Church Attics, Clues to the Private Life of Early America

10年後に明らかになるSTAP騒動の真相でもいいです。

しかし告白と言っても「藪の中」的な告白ではやっぱり「真相」など明らかにはならないかもしれません。仕方ありません。

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この問題でも多くの発言をしてこられた榎木英介さんが「嘘と絶望の生命科学」という新書を出版されました。

書いてある事は全て本当だと思います。


第5章「バイオを取り戻せ」の冒頭で、榎木さんはなぜ自分が「研究をやめた」かについて書いておられます。

ぼくも似たような事を考えた事があります。

留学先の米国から日本に戻るときに大学や病院でなくある研究所に理事長・理事面接を経て就職しました。 待遇(給料・研究費)はよかったと思います。 毎日夕方には一回帰宅して夕ご飯を食べて近くのプールで一泳ぎして夕ご飯を食べてもう一度研究室に戻るというような生活を送っていました。

しかしその中でいろいろと考えてこのままでは自分がダメになると考えて研究所をやめることにしました。

研究が主たる生活(実際は週に一度理事長に許可をもらって麻酔もしていました)に疲れたのかも知れません。別の研究機関へ移動すると言うより麻酔に軸足を置いた生活に戻る事にしました。

大学の元いた医局の教授に話したら教員の席をぼくのためには作れないということだったので当時一緒に研究を進めていた院生4人と一般病院に転出してそこで研究活動を継続しました。

基礎研究と臨床をできるところまで継続しよう、それができなくなったら基礎研究をやめようという考えです。以後その考えでずっとやってきました。

そこでわかった事は、研究というのは「どこでも」できるのだとうことです。 市中病院でも病院を選べばできます。異動した北野病院は市中病院ですがすこし特殊な病院で研究室がありました(成り立ち的には田附興風会医学研究所の病院が北野病院です)。 幸い呼吸器外科に本格的に研究を進めていた先生がいて研究機器などを使わせてもらう事ができて直ぐに研究室が立ち上がりました。当時できたらいいなと思ったのにできなかったことはDNA sequencingくらいなものでした。

結局、北野病院で過ごした日々はぼくの研究歴の中でもっとも楽しい時間を過ごした時期となりました。

研究は「人」が一番で「施設」や「お金」はやろうと思えば何とかなるのだということを学びました。

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朝日新聞にこんな記事が出ていました。

バイオパンク―DIY科学者たちのDNAハック!」 という本もあります。

実際はいろんな規制があるのでそう簡単にはいかないとは思います。 しかし「がん研究レース―発がんの謎を解く」によればガン抑制遺伝子RB発見はこのようなDIY的な研究(行われたのはMGHでですが)から端緒が開かれたようです。結構心温まるエピソードが紹介されています。

現在のぼくの職場は私立医科大学ですがぼくが研究に必要とする測定機器一式は配備されています。 大学院生もやって来てくれて、テーマを限れば十分に研究の遂行は可能です。 大それた事を考えずに、できる事をできる範囲で行うということを続ければ研究は続いていきます。

バントでもよいのでとにかく出塁しているうちに三塁打を打つのが目標です。

自分でも実験をしていて、目下の最大の問題点はぼくの「老眼」です。この克服は結構至難のわざと思います。さっきも危うくwellを間違えかけました。

 

第4章「研究不正」では「分子生物学会の会員へのアンケート結果」とNature誌に発表された研究者3247人へにアンケートの結果(Scientists behaving badly )が紹介されています。 ここで紹介されていることが「研究不正」というなら今まででいくらでも見てきました。 直接批判したこともありますが大抵は無視されました。 共著者にならないのであればぼくの責任の範囲外と思うしかありません。

 

ということは実際にはあります。

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嘘と絶望の生命科学」に「書いてある事は全部本当だ」と書きましたが一つだけ同意できないことがあります。

「論文、論文、論文」(p173から始まる段落)でPublish or Perishなどど書かれていますが多くの大学教員・研究者について少なくとも日本ではこれは成り立ちません。多くの特に医学部の臨床系の教員にとっては論文など実は大きな意味はありません。某大学に9年ほど前に異動したときも臨床系の教員は研究成果を出すことを期待されていないからと教授に言われたことを覚えています。つまり研究は「趣味」でやってくれと。

臨床系では教授以外の全ての教員の人事は担当の教授が全て決定してそれに異論をはさむ人はいません。 どんなに研究業績があって普通の医療行為ができる人であっても教授に気に入られなければ出世しません。 また助教への採用にも博士号はおろか研究業績も必要がありません。これはいわゆる旧帝国大学でもそうなのです。 論文などいくら書いたところでまたその論文がいくらインパクトが高くても医学部の臨床科ではほとんど昇進などに関係はありません。 論文などたくさん書き研究業績はあるとむしろ嫌みに思われるのが「落ち」です。 臨床も研究も人間の知的能力の発露であるので普通に両方できる人はいくらでもいるのですが、研究をしていると臨床能力に乏しいのではないかと邪推されることさえあります。 なので研究をして論文を書く必要はごく一部を除けばありません。

それではなぜ「ディオバン事件」が起こるのか。 これを説明するのはぼくでもすこし憚られます。


医学部では博士号の取得に関連してお金が動くという「都市伝説」については少なくともぼくの所属していた講座では見たことも聞いたこともありません。 少なくとも15年くらい前までは京都大学の医学研究科でもそのような事が実際にあったとは聞いたことがあります。 しかし、いまだにやっているところは「ない」とは思っています。

今回、早稻田大学の大学院があんなに野放図と知ってびっくりしました。自分が直接指導する大学院生の論文は自分の論文より詳細にチェックするというか心配でしてしまうのが普通の感覚では無いかと思います。あれで「学校の先生」がつとまるのであればこんな楽な事はないともいます。

 

こんなことを言う人もいて「ギョッと」はしますがそういったこともあるかなとは思います。 しかし、博士授与の実積といってもぼくのような職位ではそれは実積にはなりません。全て教授の実積となります。誰にもほめられません。

PNASに身も蓋もない結論の論文が出ていました。(Elite male faculty in the life sciences employ fewer women )

こんな話もあり結局は皆大きな大学の研究室や医局に集まるのだと思います。 しかし研究はあくまでも研究室の単位で行われるものです。旧帝国大学の講座であるからといってすべて素晴らしい研究を行っているわけではありません。投入されているお金との関連で言えばかなり「お寒い」講座・研究室があることは事実です。

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impact factorの最新分が発表になったそうです。(参照

一方、Pubpeerでは” A crisis of trustと題するブログエントリーが出ていて

Sanfransisco DORAからはimpact factorを使わない研究者の評価法について以下の様な勧告が出ています。( Inspiration and Good Practices)

Thomson Reuterからは THE WORLD’S MOST INFLUENTIAL SCIENTIFIC MINDS 2014  が発表されたりもしていますのでさすがにより重要なのは掲載された雑誌のIFではなく個々の論文の引用回数だということでしょうか。まあ当たり前ですね。

さらに、Natureでさえこんな論説を出しています。

だからといってImpact Factorの呪いは解けないと思います。

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小林秀雄の「蘇我馬子の墓」はこんな風に終わります。

私は、バスを求めて、田舎道を歩いて行く。大和三山が美しい。それは、どのような歴史の設計図をもってしても、要約の出来ぬ美しさのように見える。万葉の歌人らは、あの山の線や色合いや質量に従って、自分たちの感覚や思想を調整したであろう。取り止めもない空想の危険を、僅かに抽象的論理によって、支えている私達現代人にとって、それは大きな教訓に思われる。伝統主義も反伝統主義も、歴史という観念学が作り上げる、根拠のない空想に過ぎまい。山が美しいと思った時、私はそこに健全な古代人を見つけただけだ。それだけである。ある種の記憶を持った一人の男が生きて行く音調を聞いただけである

多くの科学者はその名前が後々まで語り継がれることはめったにありません。ノーベル賞を受賞した人くらいでしょうか。

そう考えるとゆっくりやっていきたいという気にもなります。

家内からはどうせノーベル賞は取れないのだから即座に研究をやめて金儲けに走れと常に言われています。

ごく健全な考えだとぼくも思っていますが確実に儲かる方法が思いつかないので結局は現状維持です。


嘘と絶望の生命科学 (文春新書 986)

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東浩紀さんの「弱いつながり 検索ワードを探す旅」を読みました。

示唆的で考えさせられるところが多い本だと思いました。

「弱いつながり」をきちんと作るには、排除の論理が必要かも知れません。その「論理」は別に公である必要はないし個人的なものでよいと思いますけどとにかく排除性は必要です。

研究室もこのスタンスで運営できれば楽しくいけると思います。本当は医局もこれで良いと思うのですが大学とかだと閉鎖性、排除性を押し出すことができないから…

弱いつながり 検索ワードを探す旅


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枚方周辺は晴れ上がり春の予感さえ漂うという日和となっています。

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昨日は日当直だったのですが4年目専攻医くん(カーリングのルールを知らない) と一緒だったので文字通り「大船」に乗っていたのですが深夜にかけて…

今日は麻酔科5週間配属の学生くん・さんといよいよ実験に突入しました。是非とも論文を書いてもらって理事長賞-そういうのがあるかどうかしりませんけど-を狙いたいです。


以前にも書きましたが電車通勤をしています。 毎日ほぼ決まった時間に決まった車両の決まった席に座っています。朝の時間帯-といっても5時台-では決まった面子が決まった席に座っているわけです。

地下鉄御堂筋線で電車の出発ぎりぎりに走って乗り込んでくる男の人がいます。 mont-bellのパーカーを着た「モンベルおじさん」です。

このおじさん淀屋橋で下りて走って改札を抜けて京阪線に向かいます。おそらく6:30発の準急に乗っているのだと思います。ぼくは小走りには移動しますがねらいは6:40発の特急なので走ったりはしません。

一方、朝毎出会う人に帰宅時に遭遇することは稀です。しかしぼくはモンベルおじさんに帰宅時に準急内で出会ったことがあります。 その時はスーツを着ていました。何をされているのかすごく興味を持っています。

 

御堂筋線にはもう一人の常連がいます。「Mr. anothor マシモ」です。 某大学の麻酔科の前の教授の先生にそっくりなのです。 一度某大学の皆さんに見てもらいたいものだと思っています。

 

この二人の他に、京阪電車で毎朝出会う名物女子高生がいます。 この子は電車に乗り込むなり食べ始めます-立っていても座っていてもです-。パンの次はおにぎり(おむすび)といった感じでばくばくと小気味よいほど食べます。かといって太っているわけではなく普通というよりはすこしやせ気味です。枚方市駅では降りません。

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朝日が水面に反射して枚方大橋を下から照らし出しています

先週に続き今週も関東以北の地方は大雪だったようです。 天災という意味では地震と変わるところはないと思います。

このような記録的な気象は異常なのでしょうか? 地球温暖化の一種の表現型なのでしょうか? New Yorkerにおもしろいエッセーが出ています。 “HOT HEADS IN COLD WEATHER”

書いたのは「シャーロック・ホームズの思考術」の著者MARIA KONNIKOVA女史です。彼女はNew Yorkerへの常連寄稿者の一人なんですね。

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ほんの数日前の本校

新聞報道によればあの世紀の大発見を報告した論文に「不自然な画像」が存在して理研がすでに調査を開始したという由。(参照1, 参照2)

ネットでも大騒ぎとなっています。

 

一般的に「画像」と「結論」の関係では以下の4つが個々の論文毎に可能性として存在します。

  1. 画像に問題が無く結論にも問題が無い
  2. 画像に問題はあるが結論には問題が無い
  3. 画像に問題は無いが結論には問題がある
  4. 画像に問題があるし結論にも問題がある

よく引き合いに出る東京大学での一連の研究不正をめぐる出来事には衝撃を受けました

加藤博士のような「一流」の科学者の研究室で「そんなことが」という驚きです。 その後東京大学の調査結果の中間報告も出て,結果としてかなり多くの論文がretractionとなったようです。 しかしこれら論文の「結論」が間違っていたのかどうかは不明です。

しかし実際に論文のretractionに同意しなかった著者もいるようです。この人たちは少なくとも論文の「結論に自信」を持っているのかもしれません。

今回、理研は「現時点では研究成果は揺るぎないと判断しているが、外部から指摘があったため調査を始めた」とのことです。

何をもって「研究成果」というのか不明ですがこういう説明はこういう場合に常になされます。

 

加藤博士は論文の「結論」の妥当性の議論は無しに東大の調査結果の発表前に辞職しました。つまり2.4.かの決着が着く前というよりその検証は無しに辞職したのです。 つまり辞職の時点では、「形式的な問題」についての責任を取っての辞職です。

 

通常科学論文では「結論」の正しさは「手続き」の正しさに担保されていると考えられています。また査読も提示されたデータが正しく提示されていることを前提として行われます。提示したデータは「不適切」だったけど「結論」は「正しい」というのは本来は妙な言い方です。

今回の調査結果の如何によっては少なくとも日本では「形式的な瑕疵はこれが偶然とはいえない場合であっても結論の正当性によって乗り越えられる」ということを日本で有数の研究機関が認めることになるのかも知れません-もちろん、よい方向にも悪い方向にもそうならない可能性もあります-。「加藤問題」では東京大学は少なくとも公式にはこれ(つまり「形式的な瑕疵はこれが偶然とはいえない場合であっても結論の正当性によって乗り越えられる」)を否定したとぼくは捉えています。

今回の騒動が問うているのは今現在ではこの問題なのだとぼくは思っています。 STAP細胞の再現性については今後の当事者や他の研究者による検証の結果によるわけですから論文内では解決のつかない問題です。また実際に手を動かしていない人間には発言の余地は限られています。

 

以上のことから今回の一件についての理研の発表にはすごく興味があります。

 

クマムシ博士こと堀川大樹さんが自身のブログで以下の様に書いています。

ある研究者が大きな発見の報告をし、国民の多くがその人を称賛するようになると、その研究者による研究報告の内容について議論すること自体が難しくなります。少しでも研究結果の疑義について論じれば、人々から非国民扱いを受けて個人攻撃を受けることがあります。そのような人々は、科学研究の作法について知らないのです。10年ほど前に、韓国ではこのような状況が起こりました。

ほとんどの研究者が疑念を持つようなデータがそこにあったとしても、世間にこのような雰囲気が形成されてくると、ブログなど公の場で自分の意見を述べる研究者は少なくなります。

 

確かにネットでの白熱に較べると「表」での発言は極端にすくないですね。 

ネットで指摘されている「問題点」は言われてみればぼくでも簡単に検証できました。 このような「世紀の発見」と言われる現象の報告の論文でこういうものを見るともう何も信じられなくなります。 Natureの論文は”H.O. and Y.S. wrote the manuscript”ということでお二人とも理研の職員で今回の場合、理研の調査の対象論文は少ない-二つだけ-のですから調査はあっという間に終わるはずです。

 

ただ東大の一連の問題でも今回も「人が死んでいる」わけではありません。 これが医療の世界だと医療行為の後に人が死んだりすると医者は逮捕されて裁判にかけられる可能性が実際にあるわけです。 この場合には「ベストを尽くしました」などという言い訳は通用しない場合がありますし「ついちょっと気を抜いて」などという世迷い言は徹夜明けであっても許されず、「医学の限界を超え」ているというような弁解も無視されてしまう場合があります。

 

そういえばこの前査読した論文でやっぱりレーン毎に切り貼りしたものがあったので指摘しました。トーンを変えると解るとかのレベルでは無く一目見て解るレベルで著者は何の罪の意識もないのだと思います。reviewの結果はどうなったのか今現在連絡はありません。

 


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