京大の研究室を閉じます

On 2013/2/15 金曜日, in Thus Spoke Dr. Hypoxia, by bodyhacker

ここ二週間の最大の懸案の大学院セミナーが沈没気味ながらとにかく終わりました。なんかこれで一気に春に突入という気分です。


次の職も内定したし,早く出してもらいというプレッシャーも感じたので今日辞表を出しました。

ぼくの京都大学からの退職に伴い3月で京都大学病院のぼくの研究室を閉めます。

8年間いたことになります。

 

京大での8年間

いろいろと思うこともあるのですが当たり障りのない部分ですこし振り返ってみようと思います。当たり障りのあることは(例えば恨み辛みとかは,あくまでも例えばですけど)フルシチョフによる秘密報告みたいな形でどこかには残しておこうとは思っています。

この8年間で

  • 28報の英語原著論文
  • 2報の英語総説
  • 7報の英語症例報告

  • 2報の日本語論文

  • 8報の日本語総説
  • 1報の日本語症例報告

その他雑文数報

をたぶん世に出しました(世に出ることが決まっているが出ていない分(3っつくらいあります)は省いています)。

多いか少ないかはわかりません。8年もいてこれくらいかいと思う人もいるかもしれません。量ではなく質が問題だという言い方もあります。でも何もなければどうにも評価できないという事もあります。

今回の京都大学での勤務は三度目でした。 一度目は研修医として一年間,二度目は大学院が終わってから助手として3年5月,今回は田附興風会医学研究所北野病院を経て着任してから8年間です。

 

指導した大学院生

1997年に大学院を終わって助手に採用されて直ぐにぼくの研究室に来たくれたのは現在高松赤十字病院で救急医をしている伊藤辰也先生です。

武内順子先生が翌年に来てくれました。

途中でぼくは米国に留学することになりましたが二人とも博士号を取得されました。ぼくも若かったし妙な理想に燃えていたので武内先生にはずいぶんな「塩対応」を行い泣かせてしまったこともありました。

留学するときにはもうこんな病院で麻酔をすることはないだろうと思っていたのですがその予感通りに,帰国時に産業技術総合研究所に就職しました。麻酔は大阪の田附興風会医学研究所北野病院で継続することになりました。

京大の麻酔科から高淵聡史先生,京大のウイルス研究所からは糟野健司先生が参加して研究室がスタートしました。高淵先生は医学部の登山会の後輩で,産業技術総合研究所に話を聞きに来てくれたその足でアパートを決めてさっさと池田市に引っ越してくれました。糟野先生は京都に住んでいて原付で池田まで通ってきていました。ある朝研究室に出てみると段ボールにくるまって寝ていたこともあり結婚披露宴でお母さんから余りがんばらせないで下さいと言われてしまいました。ぼくがそうしろといった覚えはないのですが…

翌年には関西医科大学から西憲一郎先生が参加して研究を続けていたのですが,しばらくして北野病院にぼくが異動する,というか足立先生に拾ってもらったのですが,ことになり研究が終わっていた糟野先生はおいて,高淵・西先生と共に異動しました。

異動と同時期に,京大麻酔科から尾田聖子先生,京大循環器科から尾田知之先生が参加され北野病院では総勢5人で研究を継続することになりました。

一般病院ー北野病院は実は研究所で日本学術振興会の科学研究費をとる事ができるのですーで麻酔をしながらでしたが相当の研究成果がこの時期に上がったと思います。楽しかったです。旧病院棟の3階の手術室跡がぼくらの研究室で更衣室だった場所を居室に皆で机を並べていました。 皆の都合もあり毎週土曜日の午前中にlab meetingを行っていました(4人もいるので皆がそろう曜日が難しかったのです)。その後皆で飯を食べて解散という生活でした。毎回決まった定食屋に出かけていました。いまはもうありません。 この頃になるとぼくも随分と人間ができてきて尾田先生が泣き出すというようなことはありませんでした。

回顧的に考えれば北野病院時は理想的で雑用はすべて部長の足立先生がしてくれてぼくはいわれるままに麻酔をして残りは研究の事を考えていればよかったのです。

 

その後,高淵先生の大学院の卒業,学位取得と共にぼくは京大に異動して今に至ります。その折りに西先生は倉敷中央病院で集中治療の勉強に出て,尾田知之先生も循環器内科医として働き始めました。

異動の年と翌年にかけて,西憲一郎先生,尾田知之先生,尾田聖子先生の全員が医学博士号を取得されました。学位審査には何故にこの先生がというようなガチな人が集まりとっても「高度な」審査会となったのを記憶しています。論文の査読者より厳しい質問がバンバン出てぼくだとしても返答に窮するだろうというものもありました。

その後は,若松拓彦先生,田中具治先生,大条鉱樹先生,甲斐慎一先生がぼくの研究室で研究をして医学博士号を取得されました。

現在在籍する東北大学の麻酔科から来られた鈴木堅悟先生は3月で仙台にお帰りになり,京大麻酔科の院生の松山智紀先生は論文の作成に今あたっているという状況です。

ぼくの研究室で3年なり4年なりで仕事をまっとうした大学院生で学位が取得できなかった人はいままでいません。二人とも何とかなるとぼくは確信しています。

 

今までの研究生活を振り返って

大学院を出てからは,留学の時期を除いて(その時期でも半分は)自分がprincipal investigatorとして独立して研究を進めてきたことが自分では一番よかったことだと思っています。

大きな研究室で他人のアイデアで歯車のようになって研究をするのは成果がいかに世間的に「よい」雑誌に掲載されるとしてもまっぴらです。そんなの全然おもしろくありませんし自分には余り大きな意味を持ちません。「よい」雑誌に論文を載せて自分の存在意義とするような価値観には産業技術総合研究所を辞職するときに縁を切ったつもりです。また基礎研究と麻酔科臨床の二足のわらじをはいてやっていこうとも決意してそう宣言していままでそうしてきました。

そういった考えの持ち主でも研究費がある程度取得できるとは実は日本の研究制度は優れているのかもしれません。ぼくのような一匹オオカミが研究を継続できるのはこの制度故だと思います。

ぼくの論文リストは簡単に閲覧できます。(参照1, 参照2)

引用回数(これは引用回数の数え方にも依存しますがここではELSEVIERのScopusでの統計を利用します)=Xが

X>500 2報

500>X>300 3報

300>X>100 4報

X>100 9報

というわけで100回以上引用された論文は18報でこのうちぼくがfirst author(co-first author) またはcorresponding authorであるものは8報でした。これも多いのか少ないのか微妙ですが「多い」のではないかと密かには思っています。

 

特に>500の二報のfirst author ( or co-first author) はぼく自身です。

この二報はホームランと言ってもよいと自分では思っています。PNASの論文はぼくの一番初めの論文で学位論文でもあります。まったくのゼロみたいな所から立ち上げた研究だったので印象深いですーしかも,ぼくは劣等生で大学院の4年間で論文を書くことができませんでしたー。この論文のおかげで「自分はやればデキる子なのだ」と思い込み以後の研究生活を送ることになり結局そのおかげで研究をいままで継続することになってしまいました。 今でも一番愛着があります。

Genes & Devの論文はGLSのlabにいたときのFIH-1のcloningの論文です。どう決着が着くかよく解らなかったしConnorが登校拒否みたいになったりした波乱を経て完成。投稿して3ヶ月待たされて追加実験無しでGreggが半日で改稿して翌日アクセプトされました。

アクセプトが決まりカナディアンロッキー大名旅行の旅に無事出発することができました。祝勝ムードでもういくらでも休んでくださいって感じでした。

FIH-1の遺伝子単離は低酸素研究におけるいくつかのブレイクスルーの一つです。当然的に引用回数がどんどん今でも増えています。

 

研究成果がどれくらいのものかの評価は他人がするものであるのでー現実にはぼくが出世せず雑用をしているということはたいして評価されていのでしょうー何とも言えません。

ぼく自身は今までの研究成果には満足しています。なので自分のいままで歩んだ道が間違っていたとも全く考えていません。

 

いまさらなんで異動するのか

京大では通算の在籍も長くなってきたし何より若い先生方に席を譲るべきと思いました。 年寄りがいつまでもぐずぐずしていると教室の将来の為になりませんし何より皆の眼がきついですね。これくらいで移動しないと「KYな奴」と思われそうだとぼくが思っているということもあります。

北野病院では研究活動の時間での支援を受けた事もありましたが京大病院ではほとんどそういう待遇を受けることはありませんでした。 当直その他の臨床業務は全て普通にこなしましたし手術室の管理業務も行っていました。二年前からやっと火曜日に「研究日」みたいな日をもらう事ができましたが半日は雑用で潰れていました。 講師と言うことで,初めの数年間は時間外手当もありませんでした。たぶんこれは労働基準法を犯していたと思いますがもう時効です。 毎週二日supervisorをしていて20時くらいまではほぼ毎日普通に働いていたのですが時間外ゼロ!!でした。

 

3月で研究室を閉じます

とうわけで3月で京大の研究室を閉めます。 でも真理の探究は牛の涎みたいに切りなく続いていくのです。

直接の共同研究者の先生方には個人的にも挨拶はさせていただいきました。

その他の皆さんにはこの場で挨拶させてて頂きました。

ありがとうございました。今後もよろしくお願いします。

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