3月31日です。

職場でも研究室でも異動があります。

「生物学の革命」を探し出して読み返してみましたー1970年に改訂されたものを大学院生の時にどこかの古本屋で見つけたものを持っていますー。

  • 第一部
  • 生物学はどう進むか
  • 第二部
  • 生物学者はどうすればよいか

という構成で第二部は以下の内容となっています

  1. 日本の生物学の不振ー学生制批判
  2. 討論会でー学会の現状
  3. 生物学の教育
  4. 科学者の価値
  5. 科学と民主主義
  6. 生物学者の社会的責任

読み返して,気付いたことがあります。
いわゆるMD. vs PhD.問題などに対するぼくの考えは要するにこの「生物学の革命」を読んで頭にinprintされたものを,さも自分で考えて到達した結論の様に思い込んでいただけなのだと云うことにです。
50年間に書かれたとはとうてい思えない今日的な問題ーポスドク問題などもーが議論されていて,この50年間日本の科学者は何をしていたのだろうという気持ちにもなります。
この本は,今日的な注釈をつけて再編集して出版すれば大きな反響を呼ぶと思います。

例えばいわゆる”お医者さんの研究”を評して

会場での講演の内容をきいていてもそうである。医学部の系の人の研究は,いったい何を目的としてやっているのだが,焦点がはっきりしない。ただ何となくデータを出したという感じがする。そうでなくて,ねらいがはっきりしているばあいでも,データがすこし雑なかんじがする。それには問題がないとしても,ぎりぎりさいごのところ,なんとなく態度があまい,なんとも結論の仕方が強引である,論理性がとぼしい,といったような,なんか割り切れないところがある。

こんな事を言われると気分を害する人はいると思いますが,まさに指摘の通りでぼくなど自分を振り返って恥ずかしくなってきます。本来わかっていないものを”さも”わかったように聴衆の耳に優しく話しかけて聴衆をわかったようにさせるプレゼンテーションがさもよいプレゼンテーションの見本の様にもてはやされます。
関西で開催されるのに地震の影響で中止になるような学会ははじめから開かなくともよいような気もします。

”何々であると断じて大過ないと信じます”というような主観的な結論が堂々と通用する世界は,われわれにとってはおそろしく異質なものである。

さらに

こういう人たちに日本の生物学をあずけるわけにはゆくまい。

とまで書いています。

それでも,医学は進歩する。病人はなおるし,わたしもなおしてもらった。日本人の平均年齢も増した。日本の医学者はみごとな実践能力を発揮したではないか。それはひとつには,日本の医学が孤立してるのではなくて,世界の医学につながっているからなのだろう。そこではたえず誤りが正され,あたらしい達成はすぐにひろまるからである。

大学院に入学するときにかつての師に言われたことがあります。
臨床に役立つなどという理由で研究のテーマを選びなさるなと言うことです。
まず研究として立派な研究をすること,そのような研究は,臨床医学の発展に寄与する場合もあるし無い場合もあるがはじめから臨床に役立つことを狙った基礎研究は碌なものにはならないからそんなことは考えるなという戒めです。また医学・医療はそんな思惑とは無関係に日々進歩しているので安心しろとも言われました。
これは今でもぼくの中では非常に重い言葉として生きています。
臨床は少々頭が足りなくとも地道に真剣に取り組めば必ず結果がついてくる分野です。
たとえばぼくたちのデイサージャリー診療部でも手術後に悪心・嘔吐をおこす患者さんの比率は5年前と比較しても格段に(1/2以下に)減っているのです。これを一つの”達成”と言わずして何というのでしょうか。

医師の博士号についても

だから医学博士の問題を解決するには,医師の資格のある人を全部社会的に博士とよぶことにすればよいのではなかろうか。医学士誰それ博士ということにするならば,それ以上苦労して医学博士の肩書きをとる必要はなく,社会的にももんものの医学博士や理学博士と同等に扱えばよいわけである。

と今から50年前に主張されていたわけです。

実はぼくも
以下のブログエントリーを書いていました。何度も同じ事を書いていたのですね。恥ずかしくなります。これもinprintingの一例だと思います。

ぼくは専門医制度もかなり怪しいと考えています。
分離肺換気も満足に出来ないものが麻酔科医と名乗ってさまざまの学会の専門医資格を取得して,学会の評議員とかしているのは詐欺だろうと思います。

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