ある本を読んでいて、大きな学会に参加すると時々感じる違和感があってなんなんだろうなと考えていたら「そうかそういうことかも」と思い当たることがありました。
大学は今後、教養や論理性による卓越性の競争から外れ(かけ)た者をアカデミアの一員にするために様々な新造語を弄するだろう。知的障害とされる範囲の拡大に伴って。全員が何らかの知的障害者になり、共通基準での卓越性は測れないことになる。これが、アカデミア自身に対する他者論の帰結であろう。
— 千葉雅也 Masaya CHIBA (@masayachiba) 2013, 10月 11
従来ならばそれがまっとうな学者の基準であるとされた先行研究渉猟能力もまたひとつの特殊な「障害者」のあり方となり、そこまで先行研究をフォローできない者はそれはそれでそういう「障害者」として「それぞれの権利を肯定」される。別々の学会に分派するか、同じ学会でも査読の枠が別に設けられる。
— 千葉雅也 Masaya CHIBA (@masayachiba) 2013, 10月 11
全員が何らかの知的障害者になるという言い方に妙に納得してしまいました。 自分も一種の知的障害者として見られているという視点を持っていないと解釈ができないいろんなことはあります。
所属する学会の発表を聞いていても全く意味が解らないものがあってこれは何なんだろうなと思っていたのです。たぶんあっちはあっちでぼくのやっていることなど全く解っていないと思います。そこら辺を上手にできるかできないかで違いが出て来るのでしょうね。
「環世界」という考え方があってそう思って大きな学会に臨むと居心地の悪さも軽減されます。(参照)
人文学において「知的障害カテゴリー」の多様化と拡大は、大きな問題になるだろう。これまでの、暗黙の共通基準による「オリンピック人文学」は崩壊し、多種多様な知的障害別(従来の基準において卓越していた者も一種の障害になることを強調しておく)の「パラリンピック人文学」に移行する。
— 千葉雅也 Masaya CHIBA (@masayachiba) 2013, 10月 11
基礎医学の学会なり研究会と臨床の学会で感じる違和感もこういういわれ方をするとすごく納得してしまします。
ナルシシズムを高レベルに発揮してパフォーマンスできるタイプの人間に対しては必ず、ひがみとか妬みまじりの罵倒が向けられる。そういう人たちに対しては、恍惚を発揮することは「技術的にエクササイズ可能」であると言いたい。「狂ってしまって平気」のオンオフの練習ができるということだ。
— 千葉雅也 Masaya CHIBA (@masayachiba) 2014, 3月 5
確かに「恥」を捨てると上手に話せますよね。
「別のしかたで」紀伊國屋ではサイン本がまだ大量においてあります。
“Doctored“という本を読んでいます。著者はSandeep Jauharさんという米国で働いている循環器の医者です。 ”The Disillusionment of an American Physician”という副題がついています。その副題の通りに米国で医者として生きていく難しさを蕩々と述べているような少し暗い内容なのです。がこれがまた日米を問わない医者として生きていく人間が共通して一度は考えた事のあるような様々な点が次から次へと出て来る内容になっています。
New York Timesに紹介記事が二つも出ていますので内容はそれを読んでください。
“In ‘Doctored,’ Shortcomings of Health Care and Doctor“
“In ‘Doctored,’ Sandeep Jauhar Examines a Broken System“
“doctor”って単語は動詞として使うことがあるみたいですね。その場合名詞のdoctorとは関連が少ないというかしかし実はdoctorの本質をすごくよくあらわす意味になります。
例えば”doctor evidence”というような使い方をするのだそうです。
自分で辞書を引いてみてください。
iPhoneが発表されました。
今回は「パス」ということで。